出遅れた難民支援

読売新聞「時代の証言者」12月は、近衛忠煇・日赤名誉会長です。12月23日の「出遅れた難民支援」から。

《75年のベトナム戦争終結後、ベトナム、ラオス、カンボジアで社会主義政権が誕生した。新体制を嫌い、迫害を恐れる人々がインドシナ半島を脱出し、難民になった》
日本が難民の地位を定めた難民条約に加盟したのは81年です。75年に南シナ海で救助されたベトナム人の「ボートピープル」が初上陸した時は、想定外の事態に混乱しました。日赤の対応も出遅れました。

いち早く難民支援を始めたのが、カトリック系団体カリタス・ジャパンです。私は増え続ける難民に対応するには、こうした団体の力を借りるべきだと考え、立正佼成会や天理教、救世軍、YMCAを回り、受け入れ施設の運営に協力してほしいとお願いしました。日赤は寝具や衣服、医薬品などの物資、赤十字病院の医療を施設に提供するという体制を整えました。

《日赤も77年から施設の運営を始めた。ピークの81年には、国内11か所で計1000人以上を収容した。援護事業を終了する95年までに計5000人を超える難民を受け入れた》
日本人は「人道」を口にしつつも、難民を「流れ者」という先入観で捉え、支援に慎重でした。政府も「ベトナム難民」で手いっぱいで、130万人を超えた「インドシナ難民」全体を視野に入れた方策は描けませんでした。

ただ、難民対応が一筋縄ではいかないのも事実です。日赤が運営する受け入れ施設で、収容者同士のけんかや窃盗騒ぎがよく起こった。80年代に入ると、政治的迫害ではなく経済的な理由で、難民を偽装し、日本に入国する事例が急増しました。

マレーシアで日赤医療班の難民支援を視察したことがあります。現地政府はビドン島という絶海の孤島にボートピープルの収容所を設け、安全確保を徹底していました。自国民の利益を守りつつ、政治的な迫害から逃れた人々にいかに救いを差し伸べるのか。その手探りはいまも続いています。