ツイッター買収の意味

12月3日の朝日新聞オピニオン欄「ツイッター買収、その意味」、東浩紀さんの「無料モデル、公共性に限界」から。

今回のイーロン・マスク氏によるツイッター改革騒動は、私企業が運営するSNSに公共的な役割を持たせることの限界を示したものでしょう。ある意味で、SNSへの過剰な期待に冷や水を浴びせるものだと思っています。
ツイッターは本来、今どこにいて、誰と会っているかを共有するメディアとして生まれたものです。公共的な議論や合意形成に向くプラットフォームではありません。

マスク氏は思想やイデオロギーより、経営者として動いているのでしょう。前提にあるのはツイッター社の赤字です。ツイッターは私企業であって、赤字が続いている以上、マスク氏がドラスティックに変えようとするのは、ある意味でしかたがない。
今回の騒動は、本質的には、無料の広告モデルで公共性を作ろうとすることの限界が表れたのだと思います。広告収入を考えると、ヘイトだろうがカルトだろうが、閲覧数が多ければ力を持ってしまう。リベラルな理念で質の高いものを提供しますと言っても、お金は生み出されない。

ネットの言論が公共性を持つには、「有料」を導入するしかないというのが僕の持論です。本を売り、雑誌を売るように、記事や動画を売る。顧客の側にも「買う」という習慣を身につけさせる。僕は「シラス」という有料配信サービスをやっていますが、公共的な議論は有料の場でしかできないと考えたからです。
もともと公共的なメディアは雑誌も新聞も有料です。課金することと公共的であるということは両立できます。そこで重要になるのがサービスの規模です。100万人、1千万人になると、そもそも議論が成り立たない。一方で、あまりに少なすぎては公共性は持てない。1万人から10万人ぐらいが、公共的な議論に適した規模でしょう。適度にメンバーが多様で、反応も活発だけれど、炎上は起きにくい。1万から10万の規模で公共的な議論ができるコミュニティーが、いくつもある状態が健全な社会だと思います。