社会の意図した変化と意図しない変化2

社会の意図した変化と意図しない変化」の続きです。
意図して変えた社会の変化には、政府などが主導してつくってきたものと、住民たちがつくったものとがあります。指示の主体が明確なんものと、そうでないものです。

教育内容は、政府が決めています。それによって、国民の知識やものごとの判断基準ができあがります。ごみの分別収集は、自治体が決めています。国民や住民はそれに従っています。この場合は、方向性がはっきりしています。宗教団体による教化も入れておきましょう。
これに対し、住民たちが意図して作ったものは、挨拶をするなど、地域の風習であり、気風です。民度にもなります。だれがどのように主導したかが明確でない場合が多いです。
一部の人や一部の地域で「このようにしましょう」と始まり、広がっていくのでしょう。地区の祭りや共同清掃。エレベーターの片側を急ぐ人のために空けておくこと(最近は、鉄道会社が「手すりにつかまって、歩かないでください」と呼びかけています)。

人間関係だけでなく、例えば街並みの景色も同様です。各建築主が、住宅や事業用の建物を建築します。それら建物は、(建築基準法の下で)それぞれの建築主と依頼を受けた設計・施工者の意図によって建てられます。そこには、設計があります。
では、それらが集まった街並みはどうか。それは、設計によってはできていません。(都市計画法の規制の下で)形や色彩、風合いが異なる建物が並んでいます。かつての、建築技術や素材が発展していない時代なら、その土地での共通した建築物が並びました。しかし、技術と素材の進化は、さまざまな建物を可能にしたのです。

さて「公共を創る」に戻ると、農村や発展途上時代に作られた私たちの考え方や風習は、成熟社会には適合しません。自由だけど孤独な暮らしに対し、どのようにして安心を確保するのか。成熟社会に適合した考え方や通念はどのようなものか。そして、風習や気風を、どのようによい方向に変えていくか。

なお、個人個人の意図は悪くないのに、それを積み上げると全体の結果が悪くなる場合は、経済学では「合成の誤謬」と言い、政治学では「部分最適が全体最適にならない」と表現します。参考「作為の失敗、不作為の失敗
少々まとまりの悪い文章になりましたが、ひとまず載せておきます。