不安と恐怖の違い

岸見一郎さんの『不安の哲学』(2021年、祥伝社新書)に、おおよそ次のような話があります(24ページ以下)。

恐怖はある特定のものに対して起こり、不安は対象がなく、なんとなく不安になります。大きな犬が近づいてきたとき、地震の時に感じるのは、不安でなく恐怖です。
不安には対象がないので、なぜ不安になったのか問われた人は原因を考えますが、不安には対象がないので、持ち出される原因は何でもよいのです。

不安が強くなると、生きることが困難になります。対人関係に疲れたとか、仕事や勉強がうまくいかないとか。
さらに、自分が望む、あるいは周りから期待されていると思う結果を出せないと思って、課題に取り組まない人がいます。課題に取り組まなければ結果は出ない。従って評価されないからです。低く評価されるくらいなら、課題から逃げようと考えます。一度、課題から逃げることを覚えたら、以後も逃げるようになります。

不安を、課題から逃げるための口実にするようになります。「人がひとたび人生の困難から逃げ出す見方を獲得すれば、この見方は不安が付け加わることによって強化され、確かなものになる」というのは、こういう意味です。人生の課題から逃げだそうと考えている人は、不安になることでその決心を強化するのです。不安がなくても、逃げると決めているのですが、「こんなに不安であれば逃げ出すしかない」と思えるのです。

子どもが学校に行きたくないと思ったら、休めばよいのですが、親も教師も理由がないのに休むことを許しません。そこで子どもは「お腹が痛い」とか「頭が痛い」と言います。これは、自分への言い訳になります。
不安は、人生の課題から逃れるための理由になるのです。