人の反応を羅針盤とする不安

4月24日の朝日新聞オピニオン欄「私、傷つきやすい人?」、土井隆義・筑波大学教授の発言から。

・・・「繊細さん」現象は、かつての「コミュ障」に似ています。人をさげすむために使われる言葉だったのが、「私はコミュ障だから」と自分に対しても使うようになった。他人とのコミュニケーションがうまくいかない時、「コミュ障なので許して」と、対人関係上の潤滑油や免罪符として使われるようになりました・・・
・・・こうした現象の裏には、「自分は他人にどう思われているか?」と常に考えざるをえない社会があると思います。1990年代前半まで右肩上がりだった日本のGDPの伸び(経済成長率)は、90年代後半からほぼ頭打ちとなります。この時期を境に日本社会は大きく変わりました。
2000年以降の調査では、「努力しても報われない」と考える人が増え、「生きていれば良いことがある」と考える人が減っています。この傾向は若い人に顕著で、「いい学校、いい会社へ入ればOK」といった人生目標は持ちづらくなりました。歩むべき方向が不透明になったぶん、他人の視線を強く気にするようになったのです。

かつては、たとえば「スポーツの試合で勝つため」「音楽コンクールで優勝するため」などと明確な目標がまずあり、人間関係はその目標を実現する手段でした。しかし価値観が多様化した今、人間関係それ自体が自己目的化しています。自分の内部に羅針盤を持ちにくくなり、他人の反応が羅針盤の役割を担うようになりました。
学校で「自由化」「個性化」が叫ばれるようになったのも同じ時期です。たとえば、以前なら出席番号順などで強制的に分けていたクラスの班分けも、「好きなように作ってよい」となった。自主性という名のもとで、「自己責任」化が起きました。それまでは、気の合わない人とも班を組まざるをえないという「不満」がありましたが、「自分はどの班に入れてもらえるのか?」という「不安」が勝るようになりました・・・

・・・人間関係に心をすり減らさない処方箋の一つは、「自分の居場所」を閉じずに複数作ることだと思います。子どもなら、学校の外に作ることです。異世代の集まるダンスグループでも、地域社会などでお年寄りの話し相手をするのでもいい。一つの人間関係に依存するから、「繊細」にならざるを得ないのです・・・

連載「公共を創る」で、成熟社会になり、自由が不安を連れてきたことを論じています。まさに、ここで述べられていることです。