河北新報に出ました

3月17日の河北新報1面「東日本大震災10年 語る」に、私のインタビュー「エース級集結 自腹で現地に」が載りました。

・・・震災当日から初動対応に当たっていた内閣府防災の職員に「被災地で起きている問題点を整理してくれ」と頼んだ。警察や自衛隊、自治体が持っている情報と、避難所で必要な物資の把握を急いだ。「おむつが足りない」というから赤ちゃん用かと思ったら、高齢者用だった。現場の声を拾うことは何より重要だった。
被災3県ごとに担当者を置き、意思決定プロセスを明確化した。定刻に会議を開いて論点整理し、宿題は翌朝に解決するルールを作った。「遺体袋が足りない」「人工透析患者がいる」。課題は刻々と変化した・・・
→情報集約と意思決定過程・仕事の進め方の明確化は、これまでにない課題に対し新しい組織を作って「戦う」際に、最も気を遣ったことです。

・・・当時はまだ組織の体をなしておらず、被災地とを往復する旅費が支給されずに個々が立て替えていた。若手は月3、4回新幹線で通い、宿泊費も入れると給料が消えた。何万人も犠牲になった重い現実が職員を鼓舞した。途中で離脱した職員もいたと思うが、みんなよく耐えてくれた・・・
→これも大変だったのです。組織運営担当者(省庁で言うと官房)が、旅費担当職員を増員してくれました(各省から借りてきました)。仕事をする際、組織を動かす際には、施策担当(前線)だけでなく、それを支える後方部隊が必要なのです。ところが、多くの役所で、後方部隊とそれを担う職員の重要性が忘れられています。

・・・復興庁は省庁縦割りを排せたのかとよく聞かれるが、横串を刺す一定の役割は担えたと思う。被災地の要望をたらい回しにせず、省庁とつなぐ「電話交換手」となった。館を設けず「○○本部」のままでは窓口がどこか分からず、責任を果たせなかっただろう・・・
→これも、復興庁の大きな成果だと思います。当初あれだけ批判を受けた復興庁ですが、今ではそのような批判を聞かなくなりました。職員たちが頑張ってくれたからです。

記事を紹介するのが遅くなりました。ウエッブサイトに載るのを待っていたので。このようにウエッブサイトに載って、リンクを張ることができると便利ですよね。ありがとうございます。