人は物語を求める、2

人は物語を求める」の続きです。
人は、ある出来事を見て、物語やいきさつの中に置いて理解しようとします。それだけでなく、自分にとってどのような意味があるかを考えます。

病気も医学で説明がつき、事故も因果関係によって説明できます。しかし、その説明に納得しながらも、人はそれだけでは納得しできないのです。
「なぜ私だけが、このような病気になるのか(他の人は健康なのに」「なぜ、あの人が事故に遭うのか(他の人は無事だったのに」。そこには、医学や事故の因果関係による説明だけでなく、「何か意味ある説明」が欲しいのです。
因果関係による説明を「理解」できても、意味ある理由付けをしないと「納得」できないのです。

そしてその際には、偏向が働きます。「自分は優れている」「自分だけは特別だ」と思いたいのです。
子供が、ヒーローに憧れ、自分をそのヒーローと思い込んで、わくわくします。子供だけでなく、大人も人事評価の際に、自分のことを5割増しに、他人のことは3割引で評価するという傾向があります。そうです、人は自分を中心に物事を考えるのです。
他人が病気になると「かわいそうに。どこかで病気をもらったか」と同情しつつも、他人事です。しかし、自分が同じ病気にかかると、「なぜ私が病気になるのか」と落ち込み、その理由を探そうとします。そして病原菌が原因とわかっても、納得できません。
「何か悪いことをしたかな」さらには「前世で悪いことをしたか」とまで悩みます。

他人がずるをしていることに対して、腹が立つことも同様です。「私はこんなに正直に努力しているのに。あいつはずるをして、うまくやっている」。
すると、ずるをしている人に対して、厳しく当たることになります。その人に罰が当たると、喝采します。週刊誌が売れる、スマホで悪口が拡散するのも、この性質によるのでしょう。

このような、物語を作る、自分を中心に考える、何か「原因」(因果応報の説明)がないと納得しないことは、サルから進化する過程で脳が身につけたものなのでしょう。