苅谷剛彦先生「演繹型の政策思考」

4月1日の日経新聞教育欄、苅谷剛彦・オックスフォード大学教授の「根深い演繹型思考が背景 迷走する政府主導の大学改革」から。

・・・英国から帰国の度に日本の大学人から、改革疲れ、改革への徒労感といった話を聞く。大学改革を進める側の理念と教育現場とのギャップを示す現象である。大学改革が迷走しているといってもよい。

なぜ、迷走は続くのか。佐藤郁哉編著『50年目の「大学解体」20年後の大学再生』への寄稿で展開した私の答えは、「演繹型の政策思考」と呼んだ思考様式にある。
しかも、その根は明治以来の日本近代化の出発点に遡る。日本の現実を丹念に観察し、そこから得た事実から帰納的に思考し、制度を設計してきたのではない。先進する外来の制度と理念を抽象的に理解し、その翻訳と解釈を通じて日本に適用してきた。演繹と帰納の両方を不可欠とする社会科学的思考とは異なる、法学的思考を基礎とした日本型官僚制に根ざした思考様式である。権力の上下関係だけでなく、思考スタイルの点でも、「上からの改革」を進めるざるを得ない習性が現代に引き継がれたのだ・・・

私が指摘している、「明治以来の追いつき型行政」の限界の例です。
教育行政も、欧米をお手本としていました。追いついたときに、「自分で考える」に転換する必要があるのです。それに遅れています。
「欧米に留学する」ことが「定番」で、「教育現場で課題を拾って解決する」ことになっていません。文科省には、学校現場で教えた、そして苦労した経験がある職員は、どの程度いるのでしょうか。

もう一つ、追いつき型行政の欠点があります。日本を発展させる過程で、学校教育は「優秀な国民をつくる」「よい子を育てる」が目標になりました。生徒を難関校に入れる、スポーツで良い成績を上げる・・・です。
落ちこぼれが出ることを、想定していないのです。しかし、みんながみんな、「よい子」にはなりません。彼らへの対応も、遅れています。

文科省から、教育委員会、教師まで、この思考の枠組みにとらわれています。国からの指示を待って実行するのです。「教育現場で課題解決する」という思考になっていません。
昨年、ランドセルが重いという問題が、指摘されました。文科省が「必要に応じ適切な配慮を求める通知」を出したようです。しかし、これなども、文科省が指導するような話ではないでしょう。