ブレア外交が目指したもの

30日の朝日新聞「異見新言」、細谷雄一准教授の「ブレア外交の10年、挫折から学ぶ新しい世界」から。
ブレアが目指したものは、有名な1999年4月のシカゴ演説で情熱的に語られたように、「国際共同体」を構築することであり、「正義」や「善」を実現することであった。そして何より、超大国アメリカが正しい道を歩むよう、影響力を行使することであった。21世紀の国際共同体の課題に我々が真摯に取り組み、それが軌道に乗ることこそが、彼の目指した外交目標であった。ブレアは、コソボでの虐殺をやめさせ、シエラレオネの内線を終結させ、アフリカの貧困に世界が目を向けるように訴えつづけた。環境問題に真剣に取り組む必要を説き、軍縮を進める重要性を論じた。これらの課題をめぐってすべてが順調に進んだわけではないし、英米間では常に摩擦と対立が見られた。だが、西側の指導者で過去10年間に、これらの問題を直視するよう一貫して訴えてきたのが、ブレアだった。
ブレアは、冷戦後の新しい世界秩序を構築しようと尽力した。それは、正義や善といった価値に基づいた新しい秩序である。内戦や人権蹂躙、貧困や餓死、そして環境破壊に満たされる安泰な秩序であってはならない。世界の指導者たちが、国境の内側に引きこもり、国内政治に専念して世界にあふれる困難から目を背け、理想的な言辞の陰に隠れるという選択肢を選ぶことも可能である。しかしそれこそが、ブレアが忌み嫌ったことである。
ブレアの10年から得られる教訓、それは冷戦後の新しい世界秩序を構築するためにアメリカを関与させることであり、また国連などの国際協調枠組みを活用し、その枠組みにアメリカを結びつけることである・・

1日の読売新聞地球を読む、垣添忠生さんの「感染症対策。危機管理、世界に責任」から。
・・20世紀初頭に特筆される感染症は、インフルエンザであろう。別名スペイン風邪とも呼ばれる。1918年の大流行による死亡者は、4,000万人に達した。これは、同年に終戦を迎えた第1時世界大戦の戦死者850万人をはるかに上回る数である・・
国立感染症研究所の村山庁舎内には、バイオセーフティーレベル4(BSL4 )と呼ばれる施設がある。ラッサ熱とかマールブルグ出血熱とか、BSL4に分類される危険な病原体の特定をするため、病原菌が外に漏れないように三重の厳重な防御体制を整えた施設が20数年前から設置されている。しかし、この設備は一部地元民の理解が得られず、一度も稼働していない。
仮に、成田空港にアフリカから帰国した日本人が、激しい発熱のために空港周辺の病院に収容されたとしよう。病態から特異な病原体の特定が必要になったとき、BSL4 の施設は必須である。G8参加国の中で、危機管理体制としてBSL4の設備を稼働していないのは、わが国だけである。これは、すぐれて政治的な解決が求められている問題と思う。
一度、流行の制圧に失敗したら、国内はもとより国際的にもどれだけ甚大な被害が生ずるかは、述べたとおりである・・

国際競争

28日の日経新聞「東京市場改革、誰のため」から。
・・1984年から始まった日米円・ドル委員会の焦点は、日本の金融・資本市場の開放だった。「世界第二位の経済規模にもかかわらず、かなりの障壁が残る」。当時のアメリカ高官が示した不満は、いまの東京市場への国際的な見方を聞くかのようだ。円・ドル委員会から4半世紀たってなお、国際化が議論される日本。1996年冬には、当時の橋本内閣が金融ビッグバンを掲げ、総合的な改革案を打ち出した。「2001年までに東京をロンドン、ニューヨーク並みの市場に」という目標は、いまもスローガンの域を出ない。改革の速度はなぜ遅いのか。「真剣に国益を考えないから世界を見ようともせず、のんびりした規制緩和ですませることができた」、ある社長は手厳しい。
・・イギリスの金融と関連サービス業は、過去10年で雇用を3割増やし、国内総生産の伸びの4割強に貢献したという。産業としての金融を育成すれば、国益にもかなうわけだ。国をあげて金融を振興する動きは、世界的に広がっている・・

日本の農業

23日に、「コメ市場開放と農業強化」を書きました。24日の日経新聞「成長を考える」は「産業としての農へ」でした。それによると、国内総生産(GDP)に占める農業の割合は、1%台だそうです。農業就業人口のうち、70歳以上が43%を占めます。高齢化は、思った以上に進んでいるのですね。

投資協定と「省庁の怠慢」

15日の産経新聞「投資協定まだ12か国。日本・カンボジア締結」から。
日本とカンボジアは、14日に投資協定に署名した。規制や税制といった投資環境面で、両国が自国企業と同等に扱うことなどが柱。日本企業の海外投資促進につながる投資協定の締結に、日本政府がようやく力を入れ始めたことを象徴するものだ。
包括的な経済連携協定(EPA)に比べて、投資協定は国内の反発が少なく締結しやすい。ところが、日本の投資協定締結国はカンボジアが12か国目。132か国と締結済みのドイツはもちろん、113の中国、101のイギリスなどとの差は歴然としている。
それだけに、「投資協定を重視してこなかったのは、関係省庁の怠慢」との自責の弁が聞かれるほど。経産省の北畑隆生事務次官も14日の記者会見で、「投資協定は企業が国際展開する中で重要な役割を果たすと思っているが、非常に出遅れ感がある」と述べ、出遅れた現実を認めている・・

お金でできること、できないこと

12日の読売新聞スキャナーは、「骨太の方針、陰の主役。働き方の見直し」でした。目の付け所が良いですね。「今年の骨太は骨細だ」とか「総花だ」といった定型的批判に比べ、記者(大津和夫記者)がよく勉強しています。またそれを大きく載せたデスクも、たいしたものです。
詳しくは本文を読んでいただくとして、私が関心を持った部分を抜粋します。
・・1989年の合計特殊出生率が過去最低となった1.57ショックを受け、政府は94年のエンゼルプランで始まる少子化対策で、主に保育や児童手当の拡充に力を注いできた。働き方の見直しも対策に盛り込まれてきたが、「地味で票にならない。手当や保育園の拡充の方が、目に見えやすくPRしやすい」(自民党幹部)といった事情で、実効性の期待できる対策は導入されなかった。
結果として出生率は回復せず、政府は「仕事一辺倒の働き方を変えない限り、対策の実効性は上がらない」(内閣府幹部)と判断。「保育」「経済支援」に次ぐ対策の三番手だった「働き方」が、前面に押し出された・・・
1990年代は、暮らしに関して、もう一つ大きなプランが進んでいました。ゴールドプランという、高齢者対策です。老人ホームや訪問介護を増やすといったことで、これが順調に進み、2000年の介護保険導入ができました。私は、当時交付税課の補佐で、ベッド数を増やすために、市町村の財源を手当てしていました。あまりに急速に増やすので、「本当にできるのだろうか」と心配していました。でも、できました。
一方、エンゼルプランは、効果が上がりませんでした。この記事を読んでわかることは、介護は、サービスとしてお金と人があればできる仕事だったのです。少子化対策は、世の中のお母さんや若者を、その気にさせなければ進まない施策だったのです。意識の誘導であり、生みやすい環境づくりだったのです。そして、保育園の拡充や経済支援だけでは、達成できないのです。「行政の手法の変化」を考えさせる、いい教材です。