公務員制度改革と政治の責任

佐々木毅教授「新人材バンク論争は空砲か?」(雑誌「公研」2007年4月号)から。
・・各省庁の押しつけ的斡旋を廃止することに反対する国民は少ないと思われるが、一元化すれば何が解決され、何が解決されずに残るのであろうか・・・このように、どこか焦点がずれるようなことになるのは、霞ヶ関の使用者がはっきりしないことにその淵源がある。公務員であるから国民が雇い主であるが、実際に誰が国民を代表して使用者としての責任を負うのかがはっきりしない。究極的には政府を代表する内閣がその任を負うはずであるが、内閣が省庁の上に載っているだけの存在である限り、内閣が使用者としての責任意識を持つことは期待できない。
・・使用者としての最終責任を負うのは、与党とそれが組織する内閣である。ところがこの使用者は見るべき人事政策を提唱し、それに従って被用者の人事管理を自ら行ったことはほとんどなかった。正確に言えば、それでもやってこられた・・
しかも、使用者と被用者が協力して国民に対して責任を果たすどころか、時には相手を批判することが仕事のような印象さえ与えている。国民に対して説明責任を果たすことを通して、被用者を政治的に弁護すべき立場にある使用者が、被用者を批判することで責任を果たしたかのように思いこんでいるとすれば、事態は深刻である。
誰も政治的に擁護しようとしない公的組織が衰弱し、見放され、相手にされなくなるのは、理の当然である。その意味では、霞ヶ関は政治的な危機にさらされ続けている。これで人材が集まったり、日本政府の国際競争力が高まるとすれば、奇跡であろう・・