カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

社会はブラウン運動3 構成員の純度

「社会はブラウン運動」の第3回です。
前回「個人の動きもばらばら」で述べたように、各個人は、趣味も価値観も人それぞれです。それに従ってばらばらに動く個人を、政治や学校や会社は、同じ方向に動かそうとします。力ずく(強制)、計算(お金の力)、魅力(信仰や文化)によってです。

組織になると、共通の目的を持った人たちが集まっているので、その目的に向かって行動します。もっとも、この場合も参加者の「純度」には、ばらつきがあります。
例えば、大学生を勉強のために大学に入っていると考えると、間違います。勉強が好き で授業に出ている人と、勉強が好きだけど独学を好む人。さらには、勉強は嫌い だけど大学に籍を置いて、アルバイトに励む人、運動会に青春を捧げる人、寝ている人・・・。
みんなが、大学の授業に出席して勉学に励むとは限りません。それぞれに、動機が違うのです。

会社でも役所でも、みんながみんな、仕事に熱心だとは限りません。「職場にすべてを捧げる」という人もいれば、「給料さえもらえれば」という人もいます。「仕事をしたいが、私のやりたい仕事をさせてもらえない」という人や「介護と子育てが大変で・・・」という人もいます。「昨夜飲み過ぎて」という人も。
上司は時々、これを勘違いします。「なぜ、職員は出来が悪いのか」と。みんなが、課長のように仕事熱心ではありません。その中で仕事熱心だから、課長になったのです。全員が課長にはならない、なれないのです。

社会になると、政治指導者が国民を指導して、ある方向に持って行こうとします。また、世論なるものができて、ある方向に進めようとします。しかし、ある目的で集まっている集団ですら不純物を含むのですから、社会になるともっと純度は落ちます。
それぞれが、自らの動機に従って「欲望」を実現しようと活動します。その際には、政治指導者の意図に沿っている場合もあれば、沿ったふりをしている場合や、反する動きをする場合もあります。この項続く

社会はブラウン運動2 個人の動きもバラバラ

「社会はブラウン運動」の続きです。前回はその前段として、生物の進化や人類の進化が、ある一定の法則が働いたのではなく、偶然の積み重ねだと説明しました。

社会を考える際も、統率の取れた集団がある方向に、そして全員が同じ方向に進むのではなく、各人の勝手な動きの結果が社会の変化だと考えるべきです。
社会は、個人のブラウン運動の集合と考えた方が、実態に合っています。誰か指導者がいてその人の指示の下に進む、あるいは多くの人が一定の目標を持って、社会を動かしていく。社会はそのようなものではなさそうです。

各個人は、考えも趣味も価値観もばらばらです。そして、その趣味や嗜好にそって行動します。例えば、体を動かすことが好きな人、スポーツは観戦する方が好きな人。音楽が好きな人にも、クラッシックが好きな人とジャズが好きな人など・・・。

では、そのばらばらな動きをする個体が、どのようにして一定方向に動くのか。動かすことができるのか。
動物には、走光性があります。ミドリムシや蛾が、光の方に向かって進みます。進化の過程で、そのような能力が身についたのでしょう。
人に当てはめると、ばらばらな人の群れが、何かのきっかけで、ある方向に向かって同じような行動をします。雨が降ってきたら、一斉に軒下に入るとか。

そのような「本能」でなく、人間には、意識して人を動かすことができます。
「政治」は、他者をこちらの思いに従って動かすことです。その際には、力ずく(強制)、計算(お金の力)、魅力(信仰や文化)によって、動かそうとします。しかし、「命も金も要らない」という人には、強制や金は効果がありません。
この項続く

社会はブラウン運動1 人類の進化は偶然の積み重ね

歴史を見る時、「単線的思考では視野が狭い」という議論を続けてきました。その続きです。しばらく、放ってありました。この分野「ものの見方」は不定期連載です。

今回は、歴史はある法則に従って進んでいるのではなく、ジグザクに動くという話です。その基礎には、人の動きはブラウン運動的であることがあります。
ブラウン運動は、微粒子が不規則に動き回ります。人の動きは、このブラウン運動に似ています。各自の考えや好き嫌いで、各々が思う方向に動きます。もっともブラウン運動は、微粒子は自分の考えて動いているのではなく、液体の方が動いていて、その上に浮かんでいる微粒子が動いているのが観察されるのですが。
この反対は、指導者の指示を受け入れて、各個体が一定の方向に動きます。あるいは、歴史の法則に沿って、社会が発展します。しかし、実際はそうではないのです。

この考えを説明する前に、人類の進化について触れます。
人類の進化の解説書を読んでいると、人類も神様が作ってくださったのでもなく、一定の法則や道筋で進化したものでもないようです。
アフリカの森に暮らしていたサルの一種族が、森を追い出されました。暮らしやすい森を追い出されたのは、弱かったからでしょう。競争相手に負けたのです。
弱い動物ですから、肉食獣に食べられたものも、たくさんいました。その過程でたくさん死んでいます。死に絶えた種もあります。
彼らが、生きていくために、いろんなことに挑戦しました。二本足になったり、手を使ったり。家族で協力したりと。幸運に、生き残ったのが私たち人類です。

人類に限らず、生物の進化は、偶然の積み重ねです。進化は、ある目的を持って進んではいません。突然変異が繰り返され、その中で生き延びたものが、生き残っていく。さらに変化が繰り返され、うまく適合したものが生き延びます。
法則があるとするなら、これが法則でしょう。

脱線すると、人類は強いが故に生物の頂点に立ったのではなく、弱いが故に強くなったようです。道具を使うようになり、智恵を使うようになってです。人類もまた、偶然の中からできたのです。森の中で苦労せず、おいしい木の実を食べていた強いサルたちは、そこから進化はしませんでした。しなくても、暮らしていけたのです。
その後の社会の発展も、同じです。故郷を追われた(弱い)人たちが、新天地で新しい生活を始めます。例えば、イングランドを出て、アメリカ大陸でニューイングランドをつくった人たちです。もちろん、全員がうまくいったわけではなく、冬を越せなかった人たち、失敗した人たちも多かったのですが。
この項続く

単線、系統樹、網の目5

単線的見方の続きです。直線的時間と円環的時間について。

時間や社会の進み方を見る際に、2つの見方があります。直線的時間と円環的時間です。直線的時間は、過去から現在そして未来へと、一方向に進みます。
それに対して、円環的時間は、繰り返されます。1日の太陽の動き、1か月の月の満ち欠け、1年の季節の移り変わり。朝起きて顔を洗い・・・、春が来て種をまきという農作業・・毎日の日常生活が繰り返されます。時間が経っても、変わることはありません。

直線的思考では、原因があって結果があります。円環的思考では、原因の後に結果が出ますが、その結果は次の原因になり、それが次の結果を生みます。そして一巡します。
直線的時間では、キリスト教のように、社会は終末に向かって進みます。ある目的があるのです。仏教では、輪廻転生で、終末や目的はなく、繰り返されます。

二つの思考の合成は、円環的時間が直線的に進むことです。自動車のタイヤがそうです。タイヤは一回転して元の位置に戻りますが、地面についていると、タイヤ自身が前進します。スタンドを立てた自転車なら、ペダルをこいでもタイヤは回転するだけで、前に進みません。

夕方に「やれやれ、今日も一日仕事が済んだか」と思い、朝に「今日もまた仕事か」と考えるのが、円環的思考。「今週中には、これだけ片付けるぞ」とか「今年1年、これだけのことができた」と考えるのが直線的思考です。
後者について「それでも、また次の週や来年には、次の仕事があるじゃないですか」という人が出てくるでしょうが、その間に、あなたは能力を上げているはずです。『明るい公務員講座 仕事の達人編』をお読みください。

単線、系統樹、網の目4

単線、系統樹、網の目3の続きです。今回は、網の目的見方の拡大です。

生物学の考えを参考にして、単線・系統樹・網の目という思考では視野が狭いという例を挙げます。生物はたくさんの相互関係の中で生きているということです。
その代表例が、「マイクロバイオーム」です。
人間の体内や皮膚に、何兆もの微生物が住んでいるのだそうです。体にある細胞の9割が微生物で、体重の3パーセントを占めているそうです。常在菌とか細菌相と呼ばれています。
いくつもの本が出版されていますが、私は、ロブ・デサールほか著『マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち』(2016年、紀伊国屋書店)を読みました。
細菌は皮膚や内臓などに群集で生息し、特有の生態系を形成しています。この群集は、消化や免疫など人間の生存に不可欠な機能を提供し、遺伝子にも影響を与えているのです。「細菌は病気の元、手をよく洗いましょう」と教えられましたが、これらの細菌群を滅菌してしまうと、逆に健康を損ねることがあるのです。すなわち、単純に細菌=悪玉ではなく、共生しているのです。
「主体は環境に影響される」ということですが、環境同士が依存関係にあるということです。

マイクロバイオームまで行かなくとも、生物多様性はこのような考えを示しています。
かつて、ウィルソン著『生命の多様性』(1995年、岩波書店)を出版直後に読んで、感銘を受けました。
様々な生物が、ほかの生物と競争しつつ、また隙間を見つけて生息しています。それらは、単純に生物Aが生物Bを食べるだけでなく、様々な食物連鎖と天敵・共存関係にあります。ある害虫を駆除したら、ほかのところで影響が出てくるのです。奄美諸島でハブを駆除するためにマングースを放ったら、マングースはハブを食べずに、もっと弱いアマミノクロウサギを食べたとか。

人間の社会もそうです。人たちの間に、さまざまな関係が成り立っています。その際に、ある部分だけを「改革」しても、想定したとおりの結果になるとは限りません。大多くの場合、「副作用」があるのです。それらを想定に入れた上で、改革を議論しなければなりません。そして、私たちが考える関係以外の「意外なつながり」がたくさんあって、思ってもいない余波が出るのです。
共産主義にしたら、人は平等になると考えた人がいました。結果は、働いても働かなくても同じなら、人は働かなくなり、効率が落ちるとともに、発展が遅れました(少し論理が飛躍していますね)。