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パラダイム転換、行政組織の場合

大学に講座ができると、通常科学の進化は進むが、パラダイム転換は起きないというのは、行政機構も同じです。
ある課題に取り組むために、法律や政策とともに、組織ができます。組織ができ制度化されると、政策と組織が永続化します。 官僚組織は、いったん与えられた任務は深化させます。これは、科学史での通常科学の進化と同じでしょう。しかし、そこからは、自らの組織を拡大する動きは出ても、その組織をつぶすような発想や職員は生まれません。
行政のパラダイム転換には、大から小までさまざまなレベルがあります。大は、行政のあり方、社会における官の役割見直しです。例えば、欧米への追いつけ追い越せモデルからの卒業や、事前指導から事後監視への転換などです。これは、個別の政策の転換ではなく、行政のあり方の転換です(これについては、北海道大学公共政策大学院の年報『公共政策学』に「行政改革の現在位置」を書きました)。
その次のレベルでは、新しい課題への対応と、達成した課題からの撤退です。例えば、環境庁や消費者庁の設置、コメの増産から減反政策へ、国内産業保護から開国へ・・。政策の転換は、新しい分野の法律制定や法律の大改正といった形で現れます。また、予算や人員を、新しい課題へと振り替えます。新しい組織も作られます。
行政機構では、誰がパラダイムの転換を主導するのか。これが大きな課題です。
「官僚機構とは、与えられた任務を実行する組織だ」と定義すれば、ここで提起しているようなことは問題になりません。「各官僚機構が取り組むべき課題は、政治家が与えるものだ」と仕組めば、官僚機構は自らの任務を変更する義務はありません。
大きな政策転換は、時代と国民が求め、政治家が主導するのでしょう。しかし、それより小さな転換は、各省幹部の責任だと思います。問題は、パラダイム転換的な任務と発想の転換を、行政機構の内部に、どのように仕組むかです。
私が官僚として考え続けていたことは、官僚組織が自らのパラダイム転換をどうしたら実現できるか、ということでもありました。

パラダイム転換、その3

さて、パラダイムの更新と定着、そしてその再生産の制度化という考え方は、本来の科学技術の分野を離れて、会社などの組織にも「応用」されます。
会社では、創業者や中興の祖が、新しい製品やビジネス・モデルを発明し、ヒットさせます。そして会社は大きくなり、従業員も増えます。
パラダイム転換は、このモデルがうまくいかなくなったときに、唱えられます。学問の行き詰まりや、会社では製品が売れなくなったときです。このようなときに、組織の内外から、パラダイム転換、革命が唱えられるようになります。
もっとも、転換を唱えるだけでは、改革になりません。学者なら、定説に代わる新説を提唱し受け入れられること、会社なら新製品が売れる必要があります。
この点、評論家はお気楽です。結果を出さなくてもよいのですから。もっとも、代案も出さずに、現状を批判していても、説得力はありません。ここに、評論家と実務者との違いがあります。
しかしここで、矛盾が生じます。会社や大学といった組織は、「通常科学」を進化させることは得意ですが、パラダイム転換には不向きです。
教授や会長の教えを守るのが、後輩や部下の務めですから。転換は、既存の幹部からすると、異端の考えであり、異端児です。
「科学革命」を成し遂げるのは変わり者で、「通常科学」を深めるのは普通の科学者です。会社でも、出世するのは、社長の教えを守る「よい子」です。
別の発想で従来の製品を革命的に変える製品や、通説を変える新説を出すのは、後継者からではなく、別の組織からです。革命家や改革者は、既存体制では不遇で、保守本流からは、危険分子であり、つまはじきにされるのです。

パラダイム、その2

中山茂著『パラダイムと科学革命の歴史』は、次のような構成になっています。
第1章 記録的学問と論争的学問
第2章 パラダイムの形成
第3章 紙・印刷と学問的伝統
第4章 近代科学の成立と雑誌・学会
第5章 専門職業化の世紀
第6章 パラダイムの移植
これだけではわかりませんが、時系列になっているのです。
第1章は、バビロニアと古代中国、古代ギリシャと諸子百家。第2章は、ヘレニズムと漢。第3章は、中国官僚制・紙・印刷とイスラムの学校、ヨーロッパ中世の大学です。第4章は、表題の通り。第5章は、ドイツの大学アカデミズムの成立、イギリスとフランスの場合、アメリカの大学院。第6章は、幕末明治の日本への西洋科学の移植です。
わかりやすくするために、いろいろなことを切り捨てておられるのでしょうが、私たちにも「なるほど」と思わせるものがあります。分厚い学術書も有用ですが、これだけ簡潔にするのはかなりの熟練が必要です。

トクヴィル

富永茂樹著『トクヴィル-現代へのまなざし』(2010年、岩波新書)を読みました。近年、トクヴィルがよく取り上げられます。極端に簡略化すると、自由と平等が進んだ社会がどのような病理を生むか、という視点からでしょう。19世紀前半に生きたトクヴィルが、現代を予測していたという視点です。宇野重規先生の著作も、かつて紹介しました(2010年5月5日の記事)。
富永先生のこの本も、鋭い切り口から、トクヴィルの著作と思想を分析しておられます。学生時代に、『アンシャンレジームと大革命』と『アメリカのデモクラシー』を読みましたが、こんなに深く考えが及びませんでした。前者はフランス語と英語で読み、後者は私にとって読みづらい翻訳だったというのが、言い訳です。その後、両方とも、読みやすい訳が文庫本で出たので、言い訳ができなくなりました(苦笑)。