『司馬遼太郎の時代』3

司馬遼太郎の時代』2の続きです。私が、司馬作品から影響を受けたことです。
まず、内容について。
「この国のかたち」という考え方と言葉は、しばしば使わせてもらっています。これは、政治学や社会学では詳しく取り上げられず、よい言葉がないのです。
明治という国家の見方、それに対比した戦前昭和の見方、現在日本の見方は勉強になりました。それは、歴史学の本を読んでも出てこないのです。

次に文体についてです。
司馬作品には、しばしば「余談ながら・・」という文章がでてきます。『司馬遼太郎の時代』174ページでも取り上げられています。
それは、本文から離れ、その背景や意義を解説するものです。「注」が本文に書かれているようなものです。これが、「小説でも史伝でもない」現れの一つです。その「注」を本文の展開に支障がないように書くことが、司馬さんの力量でしょう。

それと比較するのはおこがましいのですが。私の講演で実例や私の体験を話すと、聴衆によく聞いてもらえるのは、よく似ているのかもしれません。
違うのは、司馬さんの「余談ながら」は、本文に関係することをより広い視野から説明する(蟻の目から鷹の目に上昇する)のです。それに対し、私の場合は、抽象的な話から具体に入る(鷹の目から蟻の目に降りていく)のです。

もう一つ。司馬さんの文章は、それぞれが極めて短いです。1文が、3行以上になるのは少ないです。これが読みやすい理由です。私も、まねをさせてもらっています。

ごきげんだから、うまくいく

10月28日の朝日新聞夕刊、坪田一男・坪田ラボ社長の「なぜ医者から経営者に」から。

・・・先端の研究を進める一方で、同社が掲げるメッセージは「未来をごきげんにする」とわかりやすく、風変わりだ。
ごきげんは自分の理念。「うまくいくから、ごきげん」ではなく、「ごきげんだから、うまくいく」が持論。抗加齢医学の研究で、元気な100歳以上の人に聞きとりを重ねた際、その思いを強めた。多くの人が朝の目ざめや食事などの日常に感謝し、ほがらかにくらしている。「ごきげんだから、長生きする」と考えた。
ごきげんでいる工夫を尋ねると、答えが次々と返ってきた。
夢中になれる好きなことをやる。ごきげんな人とつきあう。メディテーション(瞑想〈めいそう〉)をする。その日あったよいことを三つ書く。夜6時にはブルーライトをさえぎるメガネに変える。夜8時以降、スマホやパソコンを使わない。1日8時間寝る・・・

『司馬遼太郎の時代』2

司馬遼太郎の時代』の続きです。
これだけ読まれたのに、文学や歴史学の世界から無視されたことや、いわゆる「司馬史観」への批判についても、取り上げられています。
司馬さんが自らの作品を「小説でも史伝でもなく、単なる書きもの」と呼んだことに、その理由があるようです。本人が意図した、小説でも歴史でもないことが、双方の「業界」から相手にされなかったのでしょう。それぞれから、「正統でない」「はみ出しもの」と位置づけられたのでしょう。

「司馬史観は史実のある面だけをを切り取っている」「現在の歴史学では間違っている」との批判は、司馬作品を歴史学の本と見なした批判でしょう。司馬さんは、苦笑していると思います。
どれだけ多くの人が、司馬作品で歴史を学んだでしょうか。小説と史書との間を橋渡ししたのです。それに対し、歴史家は司馬作品に匹敵するだけの成果を生みだしたでしょうか。歴史に興味を持つ国民を増やしたことで、歴史学会からは表彰されてもよいでしょう。

私は成人してからは、小説(作り話)をあまり読まなくなりました。複雑な現実世界を生きていると、小説の「単純さ」に飽きたのです。他に政治経済社会の本を読むのに忙しく、気を抜くなら紀行や随筆があいます。もちろん、小説の読み方は人それぞれでしょう。
その中でも、司馬遼太郎作品と塩野七生作品は、好きで読みました。それは、英雄を描いた小説でなく、時代背景を描いていること、そして現在日本を視点にその比較(しばしば批判)として書かれているからです。この項さらに続く。

所有欲求と存在欲求

NHKウエッブ「解説委員室」に、神野直彦・東京大学名誉教授の「人間が幸福になる経済を求めて」が載っています。1月5日に掲載されたようです。
そこに、人間の欲求には「所有(having)欲求」と「存在(being)欲求」があることが説明されています。

「所有欲求」とは、人間の外側に存在する自然などを、所有したいという欲求です。
「存在欲求」とは、人間と人間とが、さらには人間と自然とが、触れ合い、調和したい、あるいは愛し合いたいという欲求です。
「所有欲求」がみたされると、人間は、「豊かさ」を実感します。
「存在欲求」がみたされると、人間は、「幸福」を実感するのです。
工業社会とは、存在欲求を犠牲にして、所有欲求を追求した社会だと、いうことができます。
つまり、「幸福」を犠牲にして、「豊かさ」を追求した社会なのです。もちろん、それは人間の歴史に、忌わしく纏わりついていた欠乏を、解消する必要があったからです。
しかし、工業化によって、欠乏の解消が進むと、自然資源を多消費していくことに、限界が生じてきます。
しかも、所有欲求が充足されていくと、人間の人間的欲求である存在欲求が高まっていきます。

コロナ危機からの復興にあたって、「より良き社会への復興」や「新しい資本主義」が掲げられるのも、根源的危機を克服して、新しい人間の社会を形成する使命が、認識されているからだと考えられます。
しかし、そうした新しい社会のヴィジョンを、構想しようとすれば、「それで人間は幸福になるのか」という根源的問いを、発し続けなければならないはずです。
というのも、この根源的問いを等閑にし、「幸福」の追求へと社会目標を転換しなかったために、二つの環境破壊という根源的危機を、つくり出してしまったからです。
生活困窮も、所得貧困というよりも、生存を支える自然環境や、人間の絆が破壊されることによって陥っています。
そうした生活困窮をコロナ危機が深刻化させましたので、その救済は現金を配るだけでは不可能で、自然環境や社会環境が支えていた生存条件を整備しなければならないことになるはずです。

『司馬遼太郎の時代』

福間良明著『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』(2022年、中公新書)がお勧めです。
表題の通り、司馬遼太郎さんの作品を、時代という切り口から分析したものです。一つは、司馬さんが生きた時代、司馬さんの経験(帝大でない専門学校卒、戦車部隊への配属)から、書かれた作品を分析します。もう一つは、作品がなぜ昭和後期に、特にサラリーマンに受け入れられたかという日本社会の分析です。
福間さんは、『「勤労青年」の教養文化史』『「働く青年」と教養の戦後史』などを書いておられて、本書もその延長線上にあります。

司馬さんは自らの作品を、「小説でも史伝でもなく、単なる書きもの」と呼んでいます。英雄を中心にその人生を描く小説ではなく、主人公が置かれた時代をも描きます。そして幕末維新を取り上げる場合は、昭和との対比、すなわち日本を間違った道に導いた昭和の指導者たちを批判する視点から描きます。他方で、事実だけで構成する史書でもありません。読んでいて、わくわくする表現なのです(その分、暗い面は描かれることが少ないです)。
私も、『坂の上の雲』で興味を持って以来、『街道をゆく』『明治という国家』『この国のかたち』などを読みました。

『竜馬が行く』は2477万部、『坂の上の雲』が1976万部、『街道をゆく』1219万部・・・だそうです。それぞれ1冊ではなく、数巻の合計ですが、それにしてもすごい数字です。それだけ受け入れられたということです。
他方で、司馬作品で映画化されたものはさほど売れず、たくさんNHKの大河ドラマになったのに、これも視聴率は必ずしも高くなかったのです。それは、英雄を描く小説ではなかったからでしょう。はらはらどきどきや、色気とは遠いのです。この項続く。