「見えざる手」から「見える手」へ

2月7日の読売新聞あすへの考、小島武仁・東大教授の「マッチング理論――行動する経済学「見えざる手」から「見える手」へ」から。
「保育園の待機児童、臓器移植のドナー(提供者)探し、そして新型コロナウイルスのワクチン接種――。こうした現代の諸課題に対し、経済学やコンピューターサイエンスの知見を基に制度を設計し、最適解を示す「マーケットデザイン」という学問がある。
この分野で「世界をリードするトップ研究者」と評される小島武仁氏が昨年秋、米スタンフォード大教授を辞し、東京大マーケットデザインセンターの初代センター長に就いた。マーケットデザインは2012年と20年にノーベル経済学賞を受賞したが、日本ではまだ聞き慣れない。注目の研究分野のトップランナーが目指す「あす」を聞いた」

・・・経済学の父、アダム・スミスの話から始めさせてください。
彼は、人や企業が自らの利益を求めて行動すれば、需要と供給のバランスで価格が調整され、「見えざる手」に導かれるように経済成長がもたらされると説きました。このように伝統的な経済学は、市場の仕組みを「他から与えられたもの」と捉え、その働きを外側から分析する学問です。
対してマーケットデザインは、市場を「設計(デザイン)できるもの」と考えます。関係する人々の希望や動機付け(インセンティブ)を酌みとりつつ、課題解決に向けて新制度を提案したり、実務の内側で制度を改善したりします。
大きくは、1990年代の米国で携帯電話の電波利用権の競売に成功した「オークション理論」と、比較的最近になって注目された「マッチング理論」に分けられます。私が特に力を入れているのは後者です。
マッチングはもともと数学の理論ですが、様々な条件の下で「人と人」「人とサービス」を結びつけ、限られた資源を効率よく、不満なく、適材適所に配分できる情報処理手順(アルゴリズム)を研究します。好みなどを入力して恋人を探す「マッチングアプリ」がイメージしやすいでしょうか・・・
・・・マーケットデザインが力を発揮するのはこのように、政策的要請や倫理性、公平性などの理由で価格メカニズム、すなわち「見えざる手」が機能しない「市場」です。
例えば、売買が禁じられ、価格が「ゼロ」に固定された移植臓器の提供にも活用されています。海外では約1万件の腎臓移植がマッチングにより実現しました。日本では年間約1万人の研修医と全国各地の病院とのマッチングで活用されています・・・

・・・かつて世界では資本主義が社会主義に勝利し、決着がついたと考えられていました。しかし格差の広がりなどを受け、国内外で「資本主義の限界」や「社会主義の再評価」が言われるようになりました。冷戦時には存在しなかったSNSは、分断をさらに深刻なものにする恐れもあります。
イデオロギーの対立を再び繰り返すのではなく、発展的に解消する知恵が必要です。資本主義の行きすぎで機能不全に陥った「市場」があるなら、それはマーケットデザインの出番です。「見えざる手」が働かなければ、「見える手」で望ましい配分を実現し、修正すればいいのです・・・

チェシャー猫

チェシャー猫(チェシャ猫。Cheshire cat)って、ご存じですか。「不思議の国のアリス」に出てくる猫です。公爵夫人の家で、アリスが出会います。木の上などから、ニヤニヤしながら見下ろしています。
ウィキペディアでは、「歯を見せたニヤニヤ笑いを常に浮かべ、人の言葉を話し、自分の身体を自由に消したり出現させたりできる不思議な性質を具えた、劇中で最も異能の存在として描かれている」と紹介されています。

肝冷斎と、「職場に入った電子機器類(ワープロ、パソコン、電子メール、エクセルやパワーポイント)は、私たちの仕事を楽にしたか」を議論していて、この猫の話になりました。
オフィスオートメーションといった言葉がありましたが、全然そのようにはなりませんでした。私の結論は、「電子機器類は肉体作業を楽にしてくれたけど、頭脳作業は何も変わらない。そして、これらは時間泥棒である」「機械を使っているようで、機械に使われている」です。この一端は、「明るい公務員講座」でも述べました。

肝冷斎は、私たちが電子機器類を使っているようで、実は機器類に使われているのではないかという状態を、チェシャー猫で表現してくれました。
電脳空間には、影の支配者「チェシャー猫」がいます。この猫は見えたり見えなかったりしながら、みんなが快適で便利になるように見守ってくれている、と思っていたんですが。彼が支配しているのは、実は以前より厳しい関係を作り出す悪意ある空間かも知れないのです。どう使っていくか考えていかないと、便利どころか機械やソフトウエアに私たちが支配されるのです。
上の絵が良いチェシャー猫、下の絵が悪いチェシャー猫です。

 

 

 

ムラ型政治の限界

2月11日の日経新聞、芹川洋一さんの「森氏発言、ムラ型政治は通用しない」から。

・・・鎮火するどころか火は燃えさかるばかりだ。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長による女性蔑視と受けとれる発言をめぐる国内外からの反応である。ただ火が消せない背景にはけっこう根深いものがある。そこには日本政治の姿が凝縮されているからだ。
発言を撤回し謝罪することでとりあえず乗り切れると森氏と周辺は踏んだに違いない。たしかにひと昔だったら、そうなっていたかもしれない・・・

・・・底流にはもっと本質的な問題が横たわっている。ムラ社会を合意形成のモデルとする自民党の基本原理そのものにかかわってくるからだ。
その主なものは、当選回数が多い議員が一目二目おかれる長老支配、GNPとやゆされる義理と人情とプレゼント、そして全員一致原則である。
全員一致にするためには裏でさまざまな技はつかうが、落ちつけば表では「わきまえて」とやかくいわないのがムラの掟だ。だから党大会はシャンシャン大会になる。
古くは派閥のことを「ムラ」とよんだ。5つや6つの小さなムラが集まったのが自民党という大きなムラだった。森氏は今なお自民党のムラ長(おさ)だ。ムラビトからはおのずと「村長さんは失言したが、謝ったのだから大目に見よう」という話になる。それは仲間内の論理だ。
日本が外に向かって閉じていた時代、封建制をひきずる古いジャパニーズ・スタンダードの世ならば通用したのかもしれない。
しかし世の中はすでに2回転ぐらいしている・・・

復興政策、終わってからの教訓

復興事業の教訓」(4回)「日経新聞、大震災復興事業の検証」(3回)「復興事業の教訓、集落の集約」などに、成果と教訓について書いてきましたが、講演会での質問や記者からの質問を踏まえて、総括的なことを考えました。走りながら考えていたときは見えなかったことで、終わってから振り返ると見えてきたことです。ここでは、二つ書いておきます。

一つは、「走りながら考えた」ことについてです。
今回、避難所や仮設住宅での生活環境改善から始まり、国土の復旧から暮らしの再建に支援を広げました。しかしこれは、初めから考えていたことではありません。現場を見て「逃げることができず」、一つずつ支援策を作っていきました。それを整理し、政策の柱として、産業再開支援とコミュニティ再建支援と位置づけたのです。「復興がつくった新しい行政
このうち避難所での生活環境改善などは、既にその後の災害で標準になりました。しかし、大きく壊れた町の復旧については、次回の大災害の際に今回の経験がどのように活かされるかです。今回作り上げた思想と仕組みを前提として、それをどのように適応するか、改善するかです。

もう一つは、「人口減少下での復旧」についてです。
これについては当初から、復興構想会議でも議論され、マスコミも指摘していました。私も理解していたのですが、それが現場の各事業に反映されたかといういと、十分ではなかったと思います。
復興事業の教訓、過大な防潮堤批判」で触れたように、災害復旧事業は安全確保のために、壊れた施設を直ちに元に戻すという思想でできています。地域の人口減少を計算に入れる制度にはなっていません。今回が初めての、人口減少下での大災害でした。
上位概念に「人口減少下での復旧」という考えがあるのですが、現場での「各復旧事業」とをつなぐ、中間の仕組み(歯車のようなもの)がなかったのです。これをつくらないと、今後も「元に戻す復旧事業」が続くことになります。

その延長で、もう一つ述べておきます。「町を集約する」ということについてです。「復興事業の教訓、集落の集約」の続きにもなります。
多くの方々が、「南海トラフ地震など次の大災害では、町の縮小が必要になる。そのための事前復興計画を作っておくべきだ」とおっしゃいます。まことにその通りです。
しかし、実際はどうでしょうか。市町村長や県知事、議員たちが、そのような計画を事前に作ることができるでしょうか。かなり難しいでしょう。誰もが、大災害とその後の町の縮小を考えたくありません。
すると、私たちにできることは、東日本大震災からの復興において、よかった例とそうでなかった例を整理しておき、大災害が起きた際に、自治体と住民にその例の中から適切なものを選んでもらうことだと思います。

SNSが言論空間の新たな統治者に

2月8日の日経新聞経済教室、山本龍彦・ 慶応義塾大学教授「政治とコミュニケーション 思想が競争できる環境を」から。

・・・憲法学では、長く「思想の自由市場」という考えが支持されてきた。悪質・有害な言論や思想は、それへの批判言論によって淘汰されるから、市場での競争に任せておけば自然と良い言論が生き残っていくという考えだ。そこでは、政府が市場に立ち入り、言論の善しあしの判定者になることが、民主主義にとって最大のリスクとみなされる。
自由競争への信頼を基調としたこの憲法学説は、SNS(交流サイト)などのプラットフォームが言論空間の「新たな統治者」となった時代に、どこまで妥当性を有するのか。「アラブの春」から約10年、今やSNSは、偽情報や誹謗中傷など、健全な政治的コミュニケーションを阻む諸現象の温床となり、言論空間のカオス化を導いているようにも見える。このとき、言論空間への国家の不干渉を是とする思考は、むしろ民主主義を否定する方向に作用しないか・・・

・・・近年の問題は、プラットフォームがあらゆる言論の門番となることで、こうした諸制度が生み出してきたバランスが崩れ、言論空間が単一の論理と倫理に支配される可能性があることだ。「関心経済」とも呼ばれるそれは、魅力的なコンテンツを無料で提供して利用者の関心を引き、この関心(消費時間)を広告主に売る。そこでは、いかに閲覧数を増やし、滞在時間を増やすかが勝負となる。この論理の下では、丹念な取材を基に書かれた退屈な真実よりも、座して書かれた刺激的な噂話の方がもうかり、炎上が利益を生む。
そして関心を引く偽情報は、フェイククラウド(偽群衆)も手伝って、真実よりも速く拡散する。また、閲覧履歴などから利用者の政治傾向が分析され、その者の関心を引く情報が選択的に提供されるため、エコーチェンバー現象(似た者同士がつながり、思想が極端化していくこと)により利用者が部族化して分断が加速していく。中庸の思想は関心を集めずに埋没するだけでなく、部族化した空間でしばしば「狩り」の対象となり、沈黙を余儀なくされることもある・・・

・・・表現の「国家からの自由」に拘泥し、思想の自由市場を徹底して放任主義的に捉えてきた米国でも、重要な変化が起きつつある。米コロンビア大のティム・ウー教授は、プラットフォームの台頭により関心経済が言論空間を一元支配しつつあるなかで健全な政治的コミュニケーションを取り戻すには、米国の伝統を見直し、むしろ市場に対する国家の介入義務を強調することが重要だと説く・・・