カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」第42回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第42回「日本は大転換期―経済発展で「一億総中流」の社会に」が、発行されました。

前回に引き続き、昭和後期の社会の変化を、私の体験を元にお話ししています。村の暮らしが、豊かになる前と後でどう変わったかです。この60年間の変化は、私にとっては、ついこの間のことなのですが、若い人にとっては半世紀も前のことです。えらい昔のことだと、思われるでしょうね。

統計数字に続いて、私の体験を書いたのは、その時代を生きた者の「実感」を伝えたかったからです。豊かで便利になっていく実感、さらに豊かで便利になるであろうという期待です。それは、豊かさを実現した社会では、感じることのできない感覚です。そしてこれは、統計では表すことはできません。

私たちより年上、さらに私たちより少し下の世代の人までは、この実感を覚えています。そして、日本が元気で輝いていた時代を。そこからの転換、考え方の転換が遅れているというのが、次の話になります。

連載「公共を創る」第41回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第41回「日本は大転換期―経済成長が変えた暮らしと地域」が、発行されました。

前回、戦後日本の経済成長を、4期に分けて示しました。そして、経済成長が暮らしと地域を変えた象徴して、農村の変化を示しました。今回は、その変化がもたらした、社会の変化を上げました。
昭和25年(1950年)に49%だった第1次産業従事者は、1970年には19%に、そして最近では4%にまで減りました。第2次産業が25%、第3次産業が71%です。1950年に、自営業主は26%、家族従業者は35%、雇用者は39%でした。現在では、自営業主は9%、家族従業者は3%で、88%が雇用者です。農家や自宅で商売をしていた人が、勤め人になったのです。

あわせて、地域の変化を見るために、富山県の、1950年、1990年、2017年の数値を並べました。これは、『新地方自治入門』以来、使っている表です。富山県は人口が大きく変わっていないので、他の数値の比較が簡単なのです。地域の変化が歴然としています。
今回は、県庁統計調査課の村山麻美課長の協力を得ました。ありがとうございます。

そして、私の体験を述べました。1955年の明日香村(当時は高市村)生まれが経験した、高度成長前の暮らしと、その後の変化です。若い人は「へえ~」と思うかもしれません。私にとってはあっという間の65年でしたが、「えらい昔の話だなあ」と思われるでしょうね。
18日土曜夜の「ブラタモリ」は、飛鳥(明日香村)です。あの石舞台の隣に、小学校がありました。

連載執筆状況

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の執筆。難渋しつつ、進んでいます。
第3章転換期にある社会1日本は大転換期(1)成長から成熟へ、の前半(昭和後期)は、既にゲラになっています。
続きの平成時代を、ほぼ書き上げました。右筆1号、右筆2号、そして特別ゲスト右筆の3人に原稿を送って、目を通してもらっています。

平成時代は、まだ「昨日のこと」であり、それを位置づけることは難しいです。いろんな出来事や変化がありました。それが、令和の日本に、どのような影響を残すのか。それは、まだ定まっていないのです。それを自覚しつつ、まとめました。
まだ記憶に新しいことが多いのですが、間違っていてはいけないので、本などで確認しています。これも、けっこう手間がかかります。
いつものことですが、書いているうちに、「こんなこともあったな」とか「あんなこともあったはずだ」と、次々に話が広がります。しかし、発散してはいけないので、書いてもばっさり削除。

引き続き、1(2)成熟社会の生き方は、に入りました。いくつか素材は集めてあるのですが、どのように構成するか。これが難しいのですよね。また、試行錯誤しますわ。

連載「公共を創る」第40回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第40回「日本は大転換期―驚異的な経済成長」が、発行されました。
前回から、第2次世界大戦後の、日本社会の変化を見ています。今回は、経済成長を振り返っています。戦後日本の経済成長を、表と折れ線グラフで示しました。これは、いつも私が使っている図表です。今回も、小黒 桂 君(内閣府のエコノミスト)の協力を得ました。

昭和後期の「高度成長期」と「安定成長期」、平成時代の「失われた20年」と「復活中の現在」の4期に分けました。それぞれの時期の平均経済成長率は、15,5%、8,2%、-0,2%、1,7%です。こう分けると、時代がよくわかるので、優れものだと自賛しています。「復活中の現在」は進行中であり、このようになるかはまだ定まっていませんが。
表の方は、元は故貝塚啓明・東大教授に教えていただき、それを私なりに延長し改変しました。グラフの方は、かつて経済企画庁が使っていたものを、延長し改変しています。

あわせて、農村の変化を説明しました。農業就業者数は、明治初年には全就業者数の8割を占めていました。1920年に5割になり、1950年でも45%でした。漁業と林業を加えて49%。戦後まで、日本人の半分は農業だったのです。現在は、わずか3%です。

連載「公共を創る」第39回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第39回「日本は大転換期―行政が前提とした社会の変化」が、発行されました。今回から、第3章「転換期にある社会」に入ります。
第1章では、大震災の復興で体験した、これまでの復旧行政では住民や地域の要望に応えることができなかったことを解説しました。第2章では、住民の要望に応えるためには、世間ではどのような要素が必要なのかを分析しました。そこでは、これまでの行政の守備範囲では十分でないことを指摘しました。
第3章では、これからの行政の在り方を考えるために、行政が前提としていた日本社会の変化を考えます。かつて、世界から高く評価された日本の経済成長と官僚機構は、バブル崩壊後すっかり評価を落としました。その原因を考えます。

その第1回は、1日本は大転換期(1)成長から成熟へ、です。ここでは、第2次世界大戦後の日本を、昭和後期と平成時代の2期に分けて、それぞれの時期の変化を見ます。昭和後期は経済成長の時代であり、平成時代は停滞の時代です。それによって、私たちの身の回りが大きく変わり、意識も変わりました。個人の暮らし、家族の形、世間が変わったのです。

これらの変化は、新聞や年表に載るような出来事の歴史ではありません。数十年かかって変わるものであり、日々の暮らしではまた毎日のニュースでは、気づかないことです。もちろん、どの時代にも社会は変化するのですが、この75年間、戦後半世紀の変化は、まことに驚異的でした。
私はそれを、「長い弥生時代の終わり」と表現しています。日本列島に住んだご先祖様の暮らしを大きく分けると、狩猟時代(縄文時代)、稲作時代(弥生時代)、そして産業化時代と3つに分けることができます。すると、稲作を中心とした時代は、戦後まで続いていたのです。それまで約半数の人が、稲作に従事していました。その意味で、「長い弥生時代」は、戦後まで続いていたのです。
飛鳥時代、平安時代、江戸時代と歴史の教科書で習いますが、政治権力でなく日本人のなりわいから見ると、そのように区分できます。この変化に、私たちの暮らし方や意識はついて行っているのか。それを、考えます。

昨年4月末に連載を開始してから、1年が経ちました。早いものですね。「まあ、1年くらい続くかな」と目算を立てて始めたのですが、半分を過ぎたくらいでしょうか。
行政文書や論文のような硬い文章でなく、読み物として平易にまた私の体験を入れて書いているので、長くなっていることもあります。その点を評価してくださっている読者もいます。
今回の冒頭に、これまでの目次をつけておきました。このホームページをごらんの方は、こちらに載っているので不要ですが。ホームページのホームページの目次も長くなったので、2ページに分けました。