カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

歴史教育と歴史学3

歴史教育と歴史学2」の続きです。

歴史を学ぶということには、これまでの先達たちの行動を(立派なことも失敗も)学ぶことができます。そして、ものの見方を学ぶことができます。これは、歴史を学ぶことの大きな意義です。
ところが、高校までの歴史教育と大学入試試験は、これを教えたり問うていないと思うのです。それが、この項を書いた理由です。

その点に関して、『現代歴史学の名著』(1989年、中公新書)『新・現代歴史学の名著』(2010年、中公新書)を思い出しました。
当初は「現代歴史学」という文言に、「矛盾しているのではないか?」と、疑問を持ちました。
しかし読んでみると、歴史という一つの事実が、新しいものの見方によって、違って見えることがわかります。それらの見方は、出来事の羅列や政治史ではないのです。

歴史教育と歴史学2

歴史教育と歴史学」の続きです。

多くの学問は、大学での学問や研究者の最先端と、高校までの授業内容・大学入試問題がつながっています。しかし、歴史学は違うと、思います。
その第一の理由が、他の学問では、基礎知識を覚え、それを基に応用があるのに対して、学校の歴史教育には、覚えた事実を基に、何か思考するということがないのです。

それは、これまでの歴史学の内容と方法に問題があったのではないか、というのが私の考えです。
これまでの歴史学が、主に政治史であって、出来事の羅列であったからです。英雄たちや政治家がどのような政治体制をつくって、どこを支配したかを覚えさせられます。しかし、それでは、次につながりません。
民衆が出てくるのは、革命の時くらいです。経済が政治を規定するという、マルクス史学(経済学)も、大きな流れでは真理を含んでいますが、それ以上の展開はないです。

歴史学も、新しい事実(遺跡や古文書)を発見して、新しい知見をもたらしてくれます。しかしそれは、知識が増えただけで、「考える学問」とは違います。
英雄の歴史や戦争、王朝の興廃も、読み物として面白いですが、それは小説の世界です。
社会が、どのような原因でどのように変化したか。そのような「分析」なら、「考える学問」だと思います。
出来事の歴史ではなく、経済の発展、民衆の生活水準の発展、文化の変化など、「原因と結果」を説明するような歴史学なら、「知識の記憶と応用」があると思うのですが。
この項続く

歴史教育と歴史学

4月20日の日経新聞教養欄、本郷和人・東大教授の「細川頼之(上) 京都中心の新国家像描く」に次のような話が、書かれています。
・・・面接官が尋ねる。あなたは大学で、社会に役立てる何を学んできましたか? 理系は楽に答えられよう。法学部・経済学部も容易に答えを作成できそうだ。問題は文学部である。とくに実学とは縁遠い歴史学は結構つらい・・・

続きは、原文を読んでいただくとして。以前から考えていたことを、書いてみます。素人の考えなので、皆さんの意見をいただきたいです。
まだ、結論を見出していないのですが。歴史学の持つ意味です。
多くの学問は、大学での学問や研究者の最先端と、高校までの授業内容・大学入試問題がつながっています。しかし、歴史学だけは、違うような気がするのです。

中学や高校で歴史(日本史と世界史)を学びました。当時の私の感覚では、「歴史(の授業と試験)は覚えるものだ」ということでした。その覚えた事実を基に、何か思考するということは、ありませんでした。覚えることが多くて、それどころではなかったとも言えます。
何を言いたいか。他の学問分野では、基礎知識は覚えなければなりませんが、それを基に応用があります。ところが、学校の歴史(学)には、それがないのです。
算数や数学も公式や定理を覚え、問題を解きます。3+3=6は覚えますが、それだけを覚えるのではなく、足し算とは何かを覚えます。そして、いろんな数字が出てきても、足し算できるようになります。理科系の学問はそうでしょう(もっとも、私が学生の頃の生物学は、覚えることばかりでしたが)。

文化系の学問でもそうです。国語も古文、漢文も、取り上げられる小説や文章を丸覚えするのではなく、そのような文章の読み方や理解の仕方を学びます。よって、大学入試には、これまで読んだこともないような文章が出てきますが、質問には答えることができます。
ところが、歴史(学)は、応用が利かないです。私の偏見かもしれませんが。
なぜだろうと、考えました。この項続く

山崎正和さん「平成と日本人」

2月24日の読売新聞1面コラム「平成と日本人 激動期経て生き方に変化」で、山崎正和さんが、鋭い分析をしておられます。

・・・他方、平成の30年は自然災害と経済低迷によって、いわば両手打ちを食らって手荒く始まった。災害と経済には似たところがあって、どちらも人為の力で対処できない面がある。人が自分の生き方を変え、環境と運命に適合していく知恵が必要になるのである。
その点、平成の日本人は災害について素晴らしい反応を見せた。阪神淡路、東日本、熊本などの大震災、中国地方の水害を含めて、平成の災害では全国規模の市民の自発的支援活動が一般化した。年齢や階層を問わぬ市民が私費で参加し、それを周旋、組織する専門家の民間活動団体(NPO)も結成された。明治以来の近代社会の中で、血縁地縁によらない相互扶助が習慣化したのは最初ではないだろうか。

これに対して経済の方は、不況、低成長を長らく嘆かれながら、それにしてはよく安定しているというのが、庶民の実感だと言えそうである。失業者数も少なく、倒産社数も突出せず、住宅や高額商品のローン負債者の群れも目立たない。何と言っても、アメリカや中国のような所得格差の天文学的な開きは日本には認められないのである。

明らかに経済の面でも、日本人は平成の直前頃から生き方を変え、大量生産、効率主義からの自発的な転換を図っていた。物質の消費よりは情報の享受に関心を持ち、趣味、観光、スポーツなど、文化活動により多くの時間を費やす傾向を強めてきた・・・

・・・平成の30年を見渡したとき、GDPを比較すると日本の国力が相対的に低下したことは疑いない。日米中の3国の動向を比較しても、そのことははっきりしている。GDP至上主義者は落胆するだろうが、その代わり、今日の日本には明治以来のいつの時代にもなかった、誇るべき国威が新しく芽生えているように思われてならない。
ほかでもなく、日本人が今風に言えば「生きざま」を変えて、生活の文化を磨き、他人への配慮を強め、社会関係の質を高めようとしてきたことの結実である・・・

山崎先生の評論は、いつものことですが、視野の広いそして鋭い分析に脱帽します。原文をお読みください。