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人体形成の秘密

ジェイミー・デイヴィス著『人体はこうして作られる  ひとつの細胞から始まったわたしたち』(2018年、紀伊國屋書店)が、興味深かったです。

一つの細胞から、私たち人体が作られます。それも直径0.1ミリメートルの細胞です。一つの細胞が、37兆個(と本書では書いてあります。60兆個という説もあります)に分裂します。
原題は「Life Unfolding」です。一つの細胞・遺伝子から、アミノ酸・たんぱく質を次々作ることで、遺伝子情報が人体を作り上げます。折りたたまれていた情報が、展開する印象がわかります。

人体の設計図が、すべて遺伝子に書かれているのではなく、たんぱく質の生成が書かれていて、それがある時期ある場所で発現することで、次々と機能ができあがります。脳ができたり心臓ができたり、血液ができたり・・・。設計図なしで、この人体ができるとは、不思議としか言いようがありません。
大昔の地球で、分子が結合してアミノ酸になり、いろんな条件の下、様々な試行錯誤の上に、いまの人体・人類ができあがっています。遺伝子も、アミノ酸の結合体です。他の生物も。神様がいないとすると、この過程はすべて、偶然が作り出したものです。
で、この本を読んでも、「まだまだわからないことが多いんだなあ」というのが、読後感です。

自然科学にとって、宇宙のなり立ち・物質のなり立ちと、生命・脳が、2大不思議でしょう。社会科学においては、「人間関係」が一番難しい不思議だと、私は考えています。

できあがったものか、つくるものか3

できあがったものか、つくるものか2」の続きです。
この項を書き始めた趣旨は、実は「日常の行動が、思考を制約する」ということでした。 社会学では、カール・マンハイムの「存在被拘束性」ですね。科学史では、トーマス・クーンの「パラダイム」にも通じます。

解釈法学を学んでいると、また、できあがった政治の分析を学んでいると、現在の制度や社会を固定したものと見るようになりがちなのです。歴史学は過去を分析しますが、社会科学系の学問一般に、未来の制作より過去の分析に重点が置かれます。

歴史学が過去との対話であるのに対して、官僚は現在と未来の国民に責任を持つために「未来との対話」が必要だと、日経新聞コラムにも書きました。
公務員・行政組織は、社会の新しい事態に対応することが任務の一つです。しかし、解釈法学の世界に住んでいると、そして制度はできあがったものだと考えていると、この制約にはまり込みます。すなわち、現在の仕事が、あるいは仕事のやり方が正しいと思ってしまいます。そのやり方を変えるという視点を持たなくなるのです。

インフラ整備・公共事業も、気をつけないと、造ることが目的になってしまいます。
例えば、公営住宅です。かつては、不足する住宅を補うために、戸数を整備することが任務でした。今は、住宅は戸数だけ見ると余っていて、空き家が問題になっています。他方で、公営住宅での孤立、孤独死が問題になっています。
すると、建設ではなく、入居者への支援が大きな課題になります。土木部ではなく、民生部の仕事になるのです。
「住宅を作る」ではなく、「住宅で何が問題か」という発想が必要になります。過去の延長ではなく、現在の課題と未来への対応という思考が必要なのです。

2000年に介護保険制度を導入したのは、良いことでした。増える高齢者・介護対象者を見越して、この制度をつくりました。多くの人が助かっています。
定住外国人の受け入れも、それに当たります。これまで受け入れた経験で、地域での共存、子弟の教育などが課題とわかっています。今後、大勢の外国人労働者を受け入れるので、その準備が必要です。
これらは、既存制度の少々の手直しでは対応できない、大きな社会の変化です。

四角な座敷を丸く掃く」で、四角な仕事の外(大きな丸)を考える必要性を述べました。座敷の中に閉じこもっていたり、砦の中だけを深掘りしていてはいけません。

アンリ・ピレンヌ著『中世都市』

アンリ・ピレンヌ著『中世都市 社会経済史的試論』(2018年、講談社学術文庫)を読みました。原著は1927年に出ています。ピレンヌの『ヨーロッパ世界の誕生』とともに、歴史学の古典の一つとして取り上げられます。
いつかは読みたいなあと、思っていたのですが。専門的で分厚いのだろうと、敬遠していました。昨年、講談社学術文庫で出版されたので、買ってありました。

名著と言われるだけのことはあります。古代ローマ時代から中世へ、そしてルネサンスへ。西欧社会が、商業、交易面で、なぜそのような変化をしたかを、分析したものです。
その大きな引き金が、地中海貿易の衰退です。ヨーロッパ内部の原因より、外部の原因が大きいという説明に、初めは驚き、なるほどと納得します。

このような古典が、文庫本で読めるのはありがたいです。最近は、分厚い本に挑戦する気力がなくて(反省)。
新幹線の中や布団の中で読むことが多いので、文庫や新書の大きさがありがたいです。昔に比べ、活字も大きくなりましたし。もっとも、難解な内容を避け、読みやすい内容のものしか、手に取らないのですが(ここも反省)。

できあがったものか、つくるものか2

できあがったものか、つくるものか」の続きです。
この2つの見方の違いは、社会や制度を「固定したものと見るか、変化するものと見るか」と言ってもよいでしょう。政治学・政治過程論では、ある政策ができあがる過程を学ぶのですが、できあがった結果を受け入れてしまい、それが固定したものと思ってしまうのです。

官僚や公務員に対する批判の原因の一つが、これだと思います。
公務員は、制定された法に従って、個別事案を処理します。「その住民が法に定められた条件に合致すれば生活保護の対象になる、合致しなければ対象にならない」というようにです。
ところが、法律の定めにないこと、あるいは法律が現実にそぐわなくなったときに、どうするか。かつてエアコンが行き渡っていない時代に、生活保護家庭がエアコンを入れたことが問題になりました。「贅沢品であるエアコンを取り外すか、生活保護対象から外れるか」とです。

「法律に書いていないので、だめです」というのか、法律の解釈を変えるのか、法律の改正や新法を考えるのか。制定法の解釈学で育っていると、またできあがった制度の分析で育っていると、改正や新法を作る思考にならないのです。
これに対し、今ある法律は、しょせんは「変化する社会に一時的に合致しているもの。社会は変化するので、それに従って変えるべきもの」という思考なら、どんどん改正するでしょう。

組織や制度を安定に維持するためには、発生する内外の変化に、対応しなければなりません。現実の変化に応じて改革し、その変化を吸収するようにしなければなりません。制度を維持し社会を保つためには、改革が必要なのです。
それら変化を時代の趨勢に任せて、管理者は何もしない場合もあります。それは保守ではなく、先送りであり、無為無策です。変化に耐えきれなくなると、組織や制度は壊れてしまいます。

「保守と革新」「維持と改革」といった言葉で、改革するかしないかが表現されますが、これは改革作業の大小を示していると考えるべきです。より大きな対立概念に「作為と無策」があり、作為の中に「保守と革新」があります。

できあがったものか、つくるものか

社会やそれを支えている制度を見る際に、「できあがったもの」と見るか「つくるもの」と見るかの違いがあります。

まず、法律学です。私が大学の法学部で習ったことは、制定されている法律の解釈学でした。日本国憲法は所与のものとして、その制定経緯、解釈、争点についての考え方を学びました。
「このような(条件が変わった、新しい事態が起きた)場合は、このような法律を作るのだ」といった立法学は学びませんでした。社会の実態と乖離するような場合は、解釈を拡大するのです。立法学とあるのも、現在の法律成立過程の分析が主です。
次に、政治学です。これも、日本の近代現代の政治をどのように見るか、その経緯、あるべき論からの分析と批判、欧米の政治の歴史とそれを動かした思想などでした。それはそれなりに、ものの見方を養ってくれました。
しかし、どうしても「できあがったもの」の分析になります。政治学の分野に政治過程論がありましたが、これもできあがった政策の成立過程分析でした。
成立する過程を学んだのですが、身につけたものの見方は、できあがったものの分析でした。

これは、社会学も同じです。これらの学問は、過去と現在=できあがったものの分析です。
「学問である以上、客観性が必要だ」という主張もあります。立法学、政策論になると、各人の主観が入ってきて客観性が欠けるという批判です。それはその通りです。しかし、今ある法律や制度も、ある立場で作られたものです。

かつて、原島博・東大教授の発言を紹介したことがあります。「過去の分析と未来の創造と
「理系の人間から見ると、文系の先生は過去の分析が主で、過去から現在を見て、現在で止まっているように見える。未来のことはあまり語らない。一方、工学は、現在の部分は産業界がやっているで、工学部はいつも5年先、10年先の未来を考えていないと成り立たない」(『UP』2005年6月号)
この項続く