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社長候補には厳しい分野を経験させる

11月9日の日経新聞夕刊「私のリーダー論」は、小川啓之・コマツ社長の「父に学んだ社長の覚悟」でした。表題とは異なりますが、次のような話が載っています。
一般的に本社でいわゆる「王道」を歩んできた幹部は、会社が難しい局面になったときに、的確な判断ができないようです。

――社長就任前にインドネシアに赴任しています。
「14年からインドネシアの総代表を務めました。今思えば、社長になる前に前任の社長の大橋徹二さんの計らいでこれまでできなかった経験を積めたのだと考えています。当時インドネシアでは鉱山機械の需要が最低で、全く売れませんでした。直前の11〜12年に鉱山機械が売れるピークがあり、その反動で14〜15年は1台も売れない月もありました」
「コマツでは市場を伝統市場(日本、北米、欧州)と戦略市場(アジア、中南米、アフリカなど)に大別しています。これまでの社長は伝統市場しか経験していませんでしたが、今は戦略市場の重要性が高まっています。私も次期社長には伝統市場と戦略市場の両方を経験している人を据える考えです」
「その需要がボトムの時期にインドネシアに行ったことが私にとって良かったと感じています。代理店との関係性強化などに取り組みました。悪い時に良い時のことを考え、良い時に悪い時のことを考えるのは経営の要諦だと思っています」

日立製作所を立て直した、川村隆さんと中西宏明の話を思い出します。「外から組織を見る、純粋培養の時代は終わった

晩秋のアサガオ

今日11月26日の東京は、朝から冷たい小雨です。最高気温は9度とか。

長期間にわたってたくさん花をつけてくれたアサガオ。11月末になっても、小さなつぼみをつけています。秋には、ヨトウムシに食べられて、葉っぱがなくなり、種がほとんどできませんでした。
そろそろ蔓を片付けて、プランターには、チューリップの球根を植えなければなりません。

我が家の庭に住み着いたカエルは、先日、門を出て道路の方に出ていくのを見つけました。車にひかれる前に、お向かいの広い庭に持って行きました。
ここには友達もいるし、越冬もできるでしょう。

男女差大きい自治体給与

11月12日の読売新聞に「自治体給与 男女差大きく」が載っていました。読売新聞が今年8〜9月、都道府県と政令市、県庁所在地、東京23区の計121自治体に行った調査です。

・・・都道府県や政令市など主要自治体の71・9%にあたる87自治体で、2022年度の女性公務員の平均給与が男性の7割台以下だったことが、読売新聞の調査で分かった。女性職員の平均給与が男性よりも低い理由として、半数以上の自治体が非正規雇用の多さや給与の高い管理職への登用が少ない点を挙げた・・・
・・・男性に対する女性の平均給与の割合が最も低かったのは長野市の48・0%。市によると、男性の8割が正職員であるのに対し、女性の7割が非正規職員だという。最も高かったのは香川県(93・7%)で、県の担当者は「課長補佐や係長の職務についている女性が多い」と話している・・・

ワープロソフト「一太郎」

私は日本語ワードプロセッサは、「一太郎」を使っています。市場では圧倒的に、「ワード」が売れているようですが。なんと言っても、日本語で文章を書く際の使い勝手が違います。その日本語入力システム「ATOK」は、単体でも売れているのだそうです。日経BizGate10月12日「日本語入力の先駆者で独走者「ATOK」強さの理由

・・・誰もがパソコンを日本語で扱える、現在のような仕組みをつくるうえで、最大級の貢献を果たした企業の1つがジャストシステムだ。ワープロソフト「一太郎」、その心臓部といえる日本語入力システム「ATOK(エイトック)」は国産ソフトウエアの宝物。ATOKは今や空気のように当たり前の存在として多くの電子機器やサービスに溶け込んでいる。

首都圏に偏りがちだったIT(情報技術)ベンチャーの時代にあって、徳島市での創業は伝説的だ。同社が異色だったのは、創業の地だけではない。日本語入力という、必須の領域で独創性を示した。当初は日本語でじかに文字を打ち込めず、プログラマーに閉じた「箱」だったコンピューター。日本人が考えるままに文字を打てるようになったのは、同社のおかげと言っても大きな間違いではないだろう。

パソコンのハード性能がまだ高くない頃から日本語入力に取り組み始めた。浮川和宣・初子夫妻が1979年に創業し、85年に一太郎の前身ソフトを発売した。パソコンOS(基本ソフト)の「ウィンドウズ95」が登場し、パソコンが一気に普及し始めるのは10年後の95年。つまり、ジャストシステムは日本にパソコンが根付く前から日本語入力の下地を整え始めていたことになる。

89年にはATOKを単体製品として売り出した。一太郎以外のソフトでもATOKの日本語変換機能を使えるようになり、格段に入力が楽になった。多くのユーザーが日本語入力ソフトの役割を意識するようになったのはこの時期からだろう。「黒子」のような存在だった日本語入力システムが表に出た格好だ。

ATOKのなめらかな変換は文章をつづる際のストレスを減らし、効率を高めた。ビジネス文書が手書きから打ち文字に切り替わるにあたって、その貢献は絶大だった。2023年2月の大規模バージョンアップでは入力傾向に応じて変換をパーソナライズし、使い込むほどに変換精度が高まる機能を盛り込んだ。「開発当初から打ち間違いの補正や、推論、学習などのテクノロジーを注ぎ込んで変換効率を高め続けてきた。ATOKの歴史はバージョンアップの積み重ね」と、同社ソリューションストラテジー事業部 企画開発グループ 國貞暁セクションリーダーは軌跡を振り返る。

今日に至るATOKへの高い評価は、変換効率の良さによるところが大きい。当時はワープロソフト「松」を開発した管理工学研究所や、日本語入力ソフト「MS-IME」をウィンドウズOSに付属させた日本マイクロソフトなどとの競合関係があった。とりわけ、MS-IMEはOS付属なので追加費用が無料で手ごわい存在となった。しかし、競合ソフトの出現後もATOKはユーザー層を失うことなく支持を得ている。有償ソフトを購入してでもユーザーが使い続けた最大の理由は違いが実感できる変換効率の高さだろう。

ATOKの変換効率を支えてきたのは、ソフトを鍛え直し続ける社内の仕組みだ。1992年に発足した「ATOK監修委員会」は象徴的な取り組み。文筆家や国語学者、言語学者、教育者などを集めた有識者の集まりで、初期の座長は膨大な書籍を集めたことでも有名な紀田順一郎氏が務めた。書誌研究者でもある紀田氏は当時の日本語入力ソフトへの不満をしばしば発言していたが、そうした当時の機能やありようへの批判から目をそむけず、むしろ進んで議論の場を用意した「カイゼン」がATOKの足腰を強くした・・・

毎年同じことを講義した教授

読売新聞連載「時代の証言者」化学者の岡武史さん、11月23日に次のような文章があります。こんな時代があったのですね。それとも、自分で勉強せよという時代だったのでしょうか。

・・・1951年春に東大に入り、最初の2年間は駒場キャンパス(東京都目黒区)での教養課程です。これはよかった。まだ有名になっていない、新進気鋭の先生方が素晴らしいんです。好きな数学はもちろん、近代経済学なども、ズバズバッとよく分かる講義でした。
ところが、理学部化学科へ進み、本郷キャンパス(文京区)で講義を受け始めたら、全く面白くない。化学教室の先生方はもう堕落しててね。ある先生なんか、1学年上の人から貸してもらったノートと、話すことが冗談まで一言一句同じ。何十年一日のごとく、毎年同じものを読み上げていたのでしょう。偉い先生はとにかく威張ってばかり。

ちょうど学外の活動で忙しくなったこともあって、大学へ行くのは、学生同士で自主的に専門書や論文などを読む輪講くらいになりました。朝4時に起きて自習した後、8時から10時頃まで輪講をして、偉い先生方が講義室へ来る時間になると、僕は大学から逃げ出していました・・・