みなさんも、考えたことがあるでしょう。「人生が二度あれば」とか「人生をやり直すことができれば」と。
大学時代に、ある人の随筆で、次のようなことを読んだ記憶があります。
「人生をやり直せば、たぶん同じ人生を過ごすことになろう」。
身も蓋もない話です。
一度たどった人生を基に次の人生を送るのなら、過去の経験は役に立ちますが、もう一度真っ白なところから出発すると、同じ条件ですから同じ人生を送るのでしょう。
みなさんも、考えたことがあるでしょう。「人生が二度あれば」とか「人生をやり直すことができれば」と。
大学時代に、ある人の随筆で、次のようなことを読んだ記憶があります。
「人生をやり直せば、たぶん同じ人生を過ごすことになろう」。
身も蓋もない話です。
一度たどった人生を基に次の人生を送るのなら、過去の経験は役に立ちますが、もう一度真っ白なところから出発すると、同じ条件ですから同じ人生を送るのでしょう。
10月11日の読売新聞、古沢由紀子・編集委員の「進路迷う若者 視野広げる経験を」から。
・・・「医学部への進学希望が過熱している」「高収入で安定した職業の医師に人気が集中する」。日本と韓国の経済団体による交流事業で来日した韓国の高校教師たちから、そんな発言が相次いだ。半年余り前、都内で開かれた日本の教師との意見交換会の一コマだ。
韓国では難関大の入試でも高校の成績が重視される。そのため校内の競争が激化し、成績をつける教師への重圧も大きいという。
日本側の参加者から目立った反応はなかったが、医学部人気が高いのは日本も同様だ。特に理系が得意な女子の医学部志向は顕著で、理工系学部に女子学生が増えない一因とされる。
印象的だったのは、韓国の教師から「医師に優秀な学生が集中すると理工系分野が衰退し、科学技術が発展しないのではないか」と国全体への影響を懸念する声が多く聞かれたことだ。日本の学校関係者にはあまりみられない「俯瞰的」な視点のように思えた。
日本財団が6か国の17~19歳を対象に今年実施した意識調査では、「国や社会に役立つことをしたい」と答えた割合が日本の若者は最も低かった。こども家庭庁が日本と米国、ドイツ、スウェーデンなどの若者を対象に行った2023年の調査でも、「社会をよりよくするため社会問題解決に関わりたい」という日本の若者は際だって少ない。
教育評論家の尾木直樹さんはタイ、インドネシアなどの学校を視察すると「将来は国の発展に尽くす仕事をしたい」と「大志」を語る子どもに出会うという。「日本でそうした言葉を聞かないのは、社会の中でどんな役割を果たしたいかという視点で考える経験が少ないからでしょう。国情の違いもあり、希望の進路を自由に選べる環境は望ましいことではありますが」
確かに「国のため」といえば、かつての日本を想起させる。明治政府は「富国強兵」を掲げて理工系人材の育成に力を入れ、軍事力、技術力の強化を図った。
教師が主人公の小説「坊っちゃん」の発表から今年で120年の夏目漱石は、自らも教師経験を持つ。帝国大学在学中の論文では「国家の為(た)めに人間を教育するという事は理屈上感心すべき議論にあらず」と当時の風潮を批判。「教育は只(ただ)教育を受くる当人の為めにするのみにて」「人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず」という訴えは時空を超えた正論だろう。
現代の若者たちには、国内外の情勢や社会の課題に触れて視野を広げ、様々な仕事の意義を考える機会がもっと必要なのだろう。その上で、希望の進路が見つかるといい。高校や大学の学びの「転換」、そして企業など地域のサポートにも期待したい・・・
「改革は勢いでなされる」と思うことがあります。これには二つの意味があります。
一つは、改革が必要とされ、ある程度の改革案もできているのですが、先送りされていたものが、あるきっかけで動くことです。戦後改革の一つである農地解放は、戦前から企画されていたのですが、実行は難しかったのです。敗戦と占領軍による民主化の中で実現しました。
2000年の地方分権改革も、長年指摘されながら、なかなか動きませんでした。バブル崩壊後の日本の低迷、それまでの仕組みを変えようとした諸改革の一つとして動き出し、実現しました。時代の雰囲気と言ったらよいのでしょうか。令和8年の現在では、想像しにくいかもしれません。
もう一つは、突然動き出して、十分な検討なく成案ができることです。主たる目的である改革は実現するのですが、そのほかの部分まで十分な検討がなされないこともあります。急いでやるので、じっくりとは検討していられないのです。時間をかけると、改革自体が挫折する可能性もあります。
例えば昭和憲法です。地方自治を規定したことは特筆すべきことですが、私には検討が不十分だったと思えます。
憲法第93条は、地方公共団体の二元代表制(大統領制)を定めています。憲法が地方公共団体に二元代表制を義務 付 けたことは不思議です 。中央政府は議院内閣制です。ヨーロッパやアメリカでは、様々な形態が採用されています。議長が市長を兼ねるもの、複数の委員が委員会を作り立法と行政を担うもの、議会が「市管理人」を任命して専門職の人が執行を担うものなどです。じっくり時間をかけたら、二元代表制にするか議院内閣制などどのような機構にするかは、各地方公共団体が選べるようにしたでしょう。
コメントライナー2022年6月7日「憲法改正は地方自治の規定から」
10月9日の日経新聞オピニオン欄、門間一夫・みずほ総合研究所エグゼクティブエコノミストの「「経済成長」は適切な政策目標か」から。指摘のとおりです。内閣府(経済財政部門)や経済財政諮問会議でも、取り上げてほしいです。未来を語る必要がありますが、過去の実績を踏まえない議論は「空論」「希望」に終わる可能性があります。
・・・高市早苗政権は17の戦略分野を中心に官民一体で国内投資を進める。内閣府の「中長期の経済財政に関する試算」によれば、日本経済の潜在成長率は何もしなければ0.4〜0.5%にとどまるが、高市政権の成長戦略で1.7〜1.8%まで高まるという。
過去の実績はよくない。今世紀初頭の小泉純一郎政権以来、政府は累次の成長戦略に取り組んできた。そのつど潜在成長率は2%前後まで高まるとされたが、結果は逆だ。成長戦略の策定・実行が繰り返された四半世紀の間に、潜在成長率は1%程度から0.5%程度へ半分になった。
この間の成長戦略は強力な政治のリーダーシップのもとで、官民ベストの英知を結集して策定・実行されてきたはずだ。それでも成長率が、かすりもしないレベルで目標未達に終わった現実は、厳粛に受け止めなければならない。
規制緩和、イノベーション(革新)の促進、金融市場・労働市場の改革、人材の育成、財政のワイズスペンディング(賢い支出)などを語ることはたやすい。しかし、成熟段階に達した日本のような国で、「野心的な潜在成長率」を政策目標としたとき、その目標に対応する実行可能な政策手段を定量的にひもづけるのは困難をきわめる。
手段が明確でないのに高めの目標を掲げるなら、それは精神論にほかならない。高みを目指す精神論はあってもよいのかもしれないが、弊害があるなら別である。
経済成長とそのための手段のひもづけが難しいということは、ある政策を「成長には無関係」と証明し、排除するのも難しいということだ。その結果、少しでも成長に関係しそうなメニューなら幅広く正当化され、戦略はおのずと総花的なものになる。
しかし財政状況は厳しく、人的資源の制約も強まっている。「成長」の旗が立つなら何でも予算をつけるゆとりはすでに失われている。国民にとって真の課題は何なのか、その中で民間だけでは解決できず、国の強力な関与が必要な課題は何か。成長という言葉を使わずに厳しく問うべきではないか。
例えば、経済・エネルギー安全保障の強化は、成長に資するかどうか以前に、民間だけでは対応できない死活的な課題なのだから、国民に負担を求めてでも推進すべきであろう。老朽インフラの改善や災害への備えも、国民の暮らしを守るために不可欠な課題であり、それが経済成長につながるかどうかは二次的な論点である。
経済格差が問題なら是正を急ぐべきであり、成長してからその果実を分配するという発想では、問題は永遠に先送りされる。女性活躍も外国人材の登用も、労働力の確保という狭い視点ではなく、多様性や活力のある社会が望ましい、という価値観を推進力にすべきである。
経済成長は高いに越したことはないが、目指して実現できるものではないことも過去25年で証明された。むしろ「成長戦略の一環」という発想が課題の優先順位をあいまいにし、真に必要な取り組みや資金投入が、かえって中途半端になることが懸念される・・・
今日10月20日は国際協力機構(JICA)の「ウクライナ国緊急復旧・復興プロジェクト 本邦招へいプログラム」で講義をしてきました。
JICA は2023年3月から、ウクライナ政府に復旧・復興の技術支援、機材供与、都市復興計画策定支援とともに、日本に招いて日本の戦後復旧・復興及び東日本大震災からの復旧・復興の知見を伝えています。
今回は、復興・インフラ・運輸省次官ら11人が来られました。遅れてもう一人参加とのこと。
東日本大震災からの復旧・復興を話すのが、私の役割です。これまでの経験を踏まえて、話の重点を少しずつ変えています。今日も、みなさん熱心に聞いてくださり、質疑の時間が足らなくなりました。喜んでもらえたようです。このあと、被災地の視察も組まれています。
「2025年ウクライナ政府幹部講義」