岡本全勝 のすべての投稿

2010.11.13

今日は、日本大学大学院で講義でした。夕べ、中国から帰ったばかりですが、出発前に準備しておきました。
地域を経営するという観点から見ると、地方政府(市役所)は何をしなければならないのか。これまでは、財とサービスの提供が政府の役割だと、説明されていました。しかしこれは、経済学からの見方でしかありません。また、財とサービスを行政が提供しなくても、民間企業やNPOに委ねてもよいという行政改革論も盛んです。しかしこれも、政府・行政の役割が財とサービス提供であると、狭い範囲でしか見ていません。
今日本の地域社会で問題になっていること、それは活力の低下と暮らしの不安です。公共施設や公共サービスを充実することでは、解決しません。
財とサービス提供に関しては、企業活動やNPOなど非営利活動がうまくいくように条件整備をすることも、政府の仕事です。そして、活力と安心のためには、人とのつながり、地域活動などをどのように充実していくか。これが政府に問われています。「まちづくり」や「地域おこし」「地域の活性化」という言葉で、財とサービスの提供ではない地域の活性化や安心づくりが、各地で試みられています。しかしまだ、行政学や地方行政論では、体系だった議論はされず、教科書の中でも占める定位置を与えられていないようです。
もちろん、それらは市役所が提供できるものではなく、住民の参加や住民の活動によって、できるものです。ここに、難しさがあります。

変わらない年功型賃金制度

7日の日経新聞連載「検証、ニッポンこの20年。長期停滞から何を学ぶ」は、「進まぬ脱・年功賃金」でした。年功型から成果重視への賃金制度改革が、この20年の間、足踏みしています。その結果、専門性の高い人材を思うように採用できず、外国企業への流失も後を絶たないと指摘しています。競争力の源泉である人材確保に、苦しんでいるのです。
1993年に富士通が成果主義賃金制度を導入しましたが、うまくいきませんでした。2002年にはNECが、2004年には日立製作所が、裁量労働制を導入しましたが、あまり広がりませんでした。「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」は、2007年に導入を見送りました。中途採用の実施企業の割合が、2007年度の44%から、2009年度の33%に減ったという数字もあります。
同一労働同一賃金や職種別賃金への改革は、進んでいません。企業別組合が、壁になっているとの指摘があります。高度成長期には適合的だった制度が、そのあと条件が変わったのに変革できていないのです。

都市の人間関係の変化

高澤紀恵著『近世パリに生きる-ソシアビリテと秩序』(2008年、岩波書店)が、興味深かったです。
16世紀から18世紀にかけてのパリが舞台です。ソシアビリテ(人と人との結合関係)に注目し、都市の社団(住民の集まり)が様々な都市機能を担っていたのが、徐々に王権に組み込まれていく過程を描いています。近世パリにおける都市社団は、街区や教区という近隣関係、あるいはギルドという職業集団です。それが、治安、防衛、徴税、ごみ処理などの機能を果たしていました。代表者を選び、自らの負担と奉仕で、処理していたのです。しかし、次第に王が任命する官職と組織に取って代わられます。それら機能の主体でもあった住民は、統治の客体に転化するのです。
都市のソシアビリテという観点からの、都市統治・都市自治論です。政治史では、法令や制度から見た政治と行政が主ですが、それでは実際の姿が見えてきません。一方、権力者の伝記や市井の住民の日記による歴史研究もありますが、それにも限界があります。社会的な機能を果たす人間関係から見ることは、極めて有意義ですが、資料から検証するには大変な困難があります。この本は、それに成功しています。
類書に、結社の世界史シリーズ(山川出版)、第3巻福井憲彦編『アソシアシオンで読み解くフランス史』(2006年)などがあります。こちらは買ったまま、積ん読状態になっています。反省。

自由の国の不安、アメリカのデモクラシー

渡辺靖著『アメリカン・デモクラシーの逆説』(2010年、岩波新書)が、勉強になりました。渡辺教授は、文化人類学者です。社会学から見たアメリカ政治とアメリカ社会論です。自由と自助(自己責任)を信奉する国民、自らの出世や富を求め激しい競争を続ける国民、そして課題を解決するために結社をつくり政治を動かす国民。そのエネルギーが今日のアメリカをつくり、世界の憧れとなってきました。しかし、その一方で、格差、差別、対立も生んできました。自由が行き着いた先の、孤独な個人主義もです。
教授は、ジョセフ・デュミット教授の論文を紹介し、新しい病が増えていることを指摘されます。米国精神医学会による『精神疾患の診断・統計マニュアル』で見ると、1986年に182だった分類は、1994年には294へと細分化され、病が増えているのだそうです。国立健康統計センターの報告(2007年)では、情緒・行動面で問題があると親に見なされた就学年齢の子ども(4~17歳)は、14.5%にもなります。うち3分の1が処方薬の治療を受け、ほぼ同数がカウンセリングなど処方薬以外の治療を受けています。国立精神衛生研究所の報告(2004年)では、18歳以上のアメリカ人の4分の1以上が、精神疾患を患っているとしています。
渡辺教授は、「今日の新自由主義的な文化や制度のもとでは、自らの精神性や身体性という、個人に最も直近なはずの領域でさえ、自らの責任や判断によって統治・所有することが困難になっているという逆説に他ならない」と述べておられます。
自由と豊かさにおいて、日本はアメリカの後を追いかけてきました。日本社会は、このような事象も後追いするのでしょうか。

わが国成功の負の遺産

3日の読売新聞は、読売国際会議「明日への責任」で、消費税の引き上げと社会保障のあり方を、大きく取り上げていました。4日の日経新聞は、国際シンポジウム「安保改定50周年、どうなる日米関係」を、大きく紹介していました。
私は、戦後日本が成功したことの「負の遺産」の代表は、国民に負担を問わなくて良かったこと=負担を考えないことと、戦争がなかったこと=外交と防衛を考えないことの2つだと考えています(拙稿「行政構造改革」では、負担を考えないこと、国際貢献を考えないこと、自分で考えないことの3つを上げました)。
経済成長がある時は、税負担を増やすことなく、行政サービスを拡大できました。成長が止まってからは、国債と地方債で行政サービスを続けています。そして、社会保障支出は確実に増えています。サービスを増やすには負担が必要。これができないのが、今の日本です。税負担だけでなく、貿易の自由化をすると農業に負担が来る、これをどう解決するか。これからの政治は、税制も社会保障も「負担の配分」です。国際貢献も、お金とともに人を出さないと、評価されません。「危険だから嫌です」は、通用しません。
近隣諸国は友好的で、善隣外交をしておれば平和が保てるという信仰も、幻想でした。いよいよ、日本の政治、国民の政治意識が問われる事態になりました。もっとも、バブルがはじけて20年が経ち、第一次湾岸戦争で巨額の資金を出しながら感謝されなかった時からも20年が経ちます。