男もつらい

12月4日の朝日新聞オピニオン欄「男も生きづらい?」、多賀太・関西大学教授の「「つらさ」の根っこは同じ」から。

男性の「生きづらさ」が近年語られるようになったのは、ジェンダー問題を「自分ごと」として考え始めたことが背景にあると思います。
女性がジェンダーの不平等に異議を申し立て、以前に比べると、政府も社会も、職場などでの女性の地位向上をより進めてきました。従来の性別役割分業かつ男性優位の社会から、徐々に男女平等の社会へ変わる過渡期だからこそ、価値観の板挟みになっている男性も多い。
たとえば、自分もパートナーも共働きしながら家事や育児を一緒に、という考えなのに、職場では旧態依然とした「稼ぎ手」の役割を求められ、期待されているような例もある。古いジェンダーの規範と新しい価値観の間で揺れています。

男性の生きづらさが語られる中で、「今では男性の方が弱者」という主張をネット上でみかけます。
しかし、これは極論です。
男性の生きづらさは、無理やり男性優位を維持しようとしてきた社会の力から来ている。常に男性が優越し、男性中心で物事を動かしていく女性差別的な社会の仕組みとそのゆがみが、一定の割合の男性たちも苦しめているのだと理解すべきです。

男性にとって、等身大でジェンダーについて語れる場がこれまで少なかったと思います。自然体で自分の気持ちや弱音を吐きだしたり、モヤモヤを言葉にしたりする場を持つことで、ジェンダーの問題を自分ごとにする。社内会議とも飲み屋でのやりとりとも違う、男性同士の語り合いの場です。他方で、たとえ耳の痛い話でも、女性たちの声にしっかり耳を傾け、女性の立場に立って考えてみる。その両方の機会を作ることが大事です。
「つらい」という声、その根っこが女性を苦しめているものと実は同じところにあるんだよ、と理解したうえで、性別を問わず、ともにジェンダー平等へと社会を推し進める。弱さを受け止めながら、自分が変わり、社会が変わる。男性の「生きづらさ」も解消していくと思います。

「絵画で読む『失われた時を求めて』 」

吉川一義著「絵画で読む『失われた時を求めて』」(2022年、中公新書)を読みました。
以前、吉川一義著「『失われた時を求めて』への招待」を読みました。もっとも、『失われた時を求めて』は、まだ最初の部分しか読んでいないのですが。
「絵画で読む」を読んで、プルーストを読むには、これだけの背景を知らないといけないのかと、あらためてその難しさを感じました。19世紀末から20世紀初めのフランス上流階級では、このような西洋絵画の知識は当然だったのでしょうね。

掲載されている絵画を見て、「これやこのような絵は、展覧会で見たよな」と思い出しました。それらがやってくる展覧会も多く、日本にいながらで、西洋絵画が古典から最近のものまで見ることができます。ありがたいことです。

ツイッター買収の意味

12月3日の朝日新聞オピニオン欄「ツイッター買収、その意味」、東浩紀さんの「無料モデル、公共性に限界」から。

今回のイーロン・マスク氏によるツイッター改革騒動は、私企業が運営するSNSに公共的な役割を持たせることの限界を示したものでしょう。ある意味で、SNSへの過剰な期待に冷や水を浴びせるものだと思っています。
ツイッターは本来、今どこにいて、誰と会っているかを共有するメディアとして生まれたものです。公共的な議論や合意形成に向くプラットフォームではありません。

マスク氏は思想やイデオロギーより、経営者として動いているのでしょう。前提にあるのはツイッター社の赤字です。ツイッターは私企業であって、赤字が続いている以上、マスク氏がドラスティックに変えようとするのは、ある意味でしかたがない。
今回の騒動は、本質的には、無料の広告モデルで公共性を作ろうとすることの限界が表れたのだと思います。広告収入を考えると、ヘイトだろうがカルトだろうが、閲覧数が多ければ力を持ってしまう。リベラルな理念で質の高いものを提供しますと言っても、お金は生み出されない。

ネットの言論が公共性を持つには、「有料」を導入するしかないというのが僕の持論です。本を売り、雑誌を売るように、記事や動画を売る。顧客の側にも「買う」という習慣を身につけさせる。僕は「シラス」という有料配信サービスをやっていますが、公共的な議論は有料の場でしかできないと考えたからです。
もともと公共的なメディアは雑誌も新聞も有料です。課金することと公共的であるということは両立できます。そこで重要になるのがサービスの規模です。100万人、1千万人になると、そもそも議論が成り立たない。一方で、あまりに少なすぎては公共性は持てない。1万人から10万人ぐらいが、公共的な議論に適した規模でしょう。適度にメンバーが多様で、反応も活発だけれど、炎上は起きにくい。1万から10万の規模で公共的な議論ができるコミュニティーが、いくつもある状態が健全な社会だと思います。

社会学的想像力と政治的想像力2

社会学的想像力と政治的想像力」の続きです。
社会学が、人が暮らしていく際の困難を社会の側から摘発します。その困難を個人の責めに帰すのではなく、社会の側に問題があることを突き詰めます。すると、その解決はその個人や家族ではなく、社会の側を変える必要があります。ここに政治の出番があります。

すると、社会学では「社会学的想像力」が必要であるように、政治においては「政治的想像力」が必要でしょう。
それは、社会学が発見した暮らしの困難を、解決することです。
それらの問題を政治や行政の課題として取り上げること、そして誰がどのように解決するか道筋をつけることです。必要な場合は、人と金を投入しなければなりません。法律や補助金をつくっただけでは解決しない問題が多いです。すべてを取り上げることはできず、優先順位をつける必要もあります。
それらをどのように動かすか。それを政治的想像力と呼びましょう。政治的構想力と政治力とも言えます。

若者による殺人が減った

12月3日の日経新聞「犯罪減っても体感治安は? 戦後最も安全 実感できぬ理由」には、若者による殺人が減ったことも書かれていました。

・・・殺人を犯す性別と年齢をみると、20代前半の男性に鋭いピークがある。「20代前半に自分の評価を高めるための個体間の強い競争が、特に男対男で生まれるから」(長谷川真理子さん)だ。世界で共通するこの傾向は「ユニバーサルカーブ」と呼ばれる。
ところが日本だけは20代前半の男性の殺人率が低下し始めた。長谷川さんはその理由を「失業率低下や終身雇用など労働環境の改善」に求め、経済情勢が悪化すれば再び増えると予想した。だが実際の殺人率は直近でも減り続けている。長谷川さんは「競争を避けるようになったことが一因」と分析する。若者の怒りは陰湿ないじめや自殺に向かってはいまいか・・・

図がついていますが、一目瞭然です。