シジュウカラとウグイスのさえずり

ご近所の庭に、いろんな種類の小鳥が来ます。早朝から、その鳴き声が聞こえてきます。お向かいは、庭に小鳥のエサと水浴び場を用意しておられます。また、別のお家の高い木に、小鳥が止まってさえずるのです。

最近では、ウグイスが、ホーホケキョときれいな鳴き声を聞かせてくれます。こんな街中、住宅街で。またシジュウカラは、大きな高い声で、ツィピーツィピーツィピーなどとさえずっています。
ご近所のバラは、赤、白、ピンクと鮮やかな花を咲かせています。
初夏ですね。今日16日の日曜は、雨でしたが。

連載「公共を創る」第43回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第43回「日本は大転換期―崩壊したバブルとその後続いた経済停滞」が、発行されました。
前回まで、昭和後期の経済成長による社会の変化を解説しました。今回から、平成時代の変化を議論します。平成はまだ終わったばかりで、その評価は定まっていませんが、無理を承知で話を進めます。

まず、経済です。バブル景気から始まった平成時代は、バブルの崩壊と、その後続いた経済停滞「失われた20年」に苦しみました。
経済成長が鈍化したのではなく、一時はマイナス成長になったのです。その後も、大きな成長はできず、そして世界での地位を落としています。それは、バブル経済の後遺症では説明できません。

ところで、この連載が掲載されている「地方行政」は、毎週月曜と木曜の2回発行されているのですが、コロナウィルスの影響を受けて、週1回の発行になるそうです。私の連載も、毎週木曜日でなく、隔週になるようです。こんなところにも、コロナウィルスの影響は及んでいます。

スマホを切る

5月12日の日経新聞夕刊Bizワザは、「スマホ断食で安らぐ休日 触れない時間設け集中」でした。
・・・スマートフォンの普及で休日も仕事から離れられない人は多いだろう。だが、四六時中スマホを使っていては仕事の「オン」「オフ」を切り替えられない。休日に連絡する条件を決めたり、特殊な箱に入れて強制的にスマホを使えなくしたりするなど、短時間スマホを手放すだけで気分は切り替えられる。休日のスマホ依存から脱却する方法を専門家に聞いた・・・

・・・休日の連絡や仕事はケース・バイ・ケースで判断すべきだ。まずは休日でも連絡を取らざるを得ない状況を上司などと決めておこう。
外資コンサルティング会社勤務の男性は金曜日の夜までに終了済みの仕事と、休み明けの仕事の予定を上司と共有している。「休日にする必要のない仕事がはっきりする。休みと仕事を切り替えられる」という。
やむなく休日にスマホで仕事をする場合も短時間で終わらせたい。例えば休日のメールでも急ぎの対応が不要なケースもあるはず。メールアプリの差出人をフォルダごとに分類する機能を使えば、返事の必要の有無に応じて対応できる。チェックするメールの数を減らせば、その分気分も軽くなる。

スマホでネット検索する際は、時間を区切ってほしい。スマホ依存に関連した著書を持つ伊藤崇氏は「インターネットは情報があふれている。際限なく情報を探してしまう」と指摘する。
森下氏は「短時間でもスマホを使わない時間をつくるのが有効だ」と話す。例えばスマホのアラーム機能を使っている人はアナログの時計に変えてみる。日中であれば、散歩や外食に行くときはスマホを持ち歩かないなど、自分でルールを決めてみよう・・・

佐藤博樹・中央大学ビジネススクール教授は、次のように話しておられます。
・・・仕事をする場所と時間の自由度が高まりました。生活と仕事の境界があいまいになったとも言えます。だからこそ両者を切り分ける能力が大事です。日本は仕事中心の生活に抵抗感が少ない人が多い。プライベートを重視するという思考がないまま、極論すれば24時間仕事ができる体制になっているのは問題です・・・

浪江町沿岸部で震災後初の田植え

5月13日のNHKニュースが、「浪江町沿岸部で震災後初の田植え」を伝えていました。

・・・東日本大震災の津波と原発事故で大きな影響を受けた浪江町の沿岸部の田んぼで、13日、震災後初めて田植えが行われました。
浪江町では、原発事故による避難指示が3年前に一部で解除され、内陸ではコメ作りが再開されていますが、津波で被災した沿岸部はがれきの撤去などのため、再開が遅れていました。
復旧作業が進んだ沿岸部の田んぼでは、13日、震災後初めて、10年ぶりの田植えが行われました・・・

先日「浪江町で田植え、作付け3倍に」を紹介しました。着実に復興が進んでいます。

「自己責任の時代」

ヤシャ・モンク著『自己責任の時代 その先に構想する、支えあう福祉国家』(2019年、みすず書房)を読み終えました。連載「公共を創る」で、現代の自由と孤独を考えています。また別途、原発事故後の責任を考えていて、この本を見つけました。
この本は、政治哲学として自己責任を考えます。副題にあるように、福祉国家での自己責任の問題です。門外漢の私には、やや難解でした。前半は私なりに、理解しました。

社会福祉の対象になったときに、このような支援を求める状態になったのには、学校時代に勉強をサボったから、まじめに働いていないから、生活能力が不十分なのに子どもをつくったからとか、本人に責任があるのではないか。生活保護などの対象となる際に、本人の帰責事由のあるなしが問われるのです。
お互いが助け合おうとして始まった福祉制度が、困っている人の責任を問うのです。自業自得、身から出たさびと、突き放すのです。

かつて、困った人がいる場合に使われた「責任」は、その人を救う責任が国や周囲の人にあるという意味においてでした。社会の側に責任がありました。ところが、社会保障制度が完備されると、国や周囲は責任を果たしたので、問題があるならその本人に責任があると、責任の主体が反転しました。
これは、社会福祉制度の逆説です。恵まれない人への「施し」から、社会保障制度による「支援を受ける権利」へと転換し、さらにその受給権の水準が高くなると、このような反転が起きました。