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行政-政治の役割

覇権国家イギリスを作った仕組み、11。本当に飢えた人は暴動を起こす元気もない

近藤和彦著『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』、18世紀イギリスでしばしば起きた食糧一揆が、民衆による「法の代執行」である点を解説するくだり(p163~)から。
・・食糧一揆といえば、飢え、自暴自棄になった群衆が業者や倉庫を襲う「暴動」という紋切り型のイメージがあるが、しかし、18世紀の食糧一揆は餓死しそうな貧窮から生じたのではない。そもそも本当の飢餓状態にあれば、わたしたちもニュース映像で見ているとおり、病み、放心して横になるか、せいぜい祈るしかないだろう。私たちの注目している一揆勢は元気で、憤り、自ら集団的に行動する「正当性の拠りどころ」をもっていたように見える。一面で統治権力のありかた、地主・商工業者などの姿勢、あるいは世論のありかたも重要であるが、同時に民衆のおかれた生活条件や一揆の規律、〈制裁の儀礼〉としての性格に注目する必要もある・・

覇権国家イギリスを作った仕組み、10。エリート文化と民衆文化

近藤和彦先生の続きです。『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』(2014年、ちくま学芸文庫)も、興味深い本でした。民衆文化を扱っているのですが、次のような概念を建てておられます(p65~)。
人類学者のR・レドフィールドの対概念「大きな伝統」と「小さな伝統」を援用して、社会の文化を2つに分類します。「大きな伝統」は、エリート文化で、キリスト教会や古典のように、制度として受け継がれ、教育によって継承され、聖俗の支配者・知識人によってになわれた。こうした公式で国家的な世界を、ロシアのM・バフーチンは「第一の世界」と呼んだ。
これに対し、「小さな伝統」は、民衆文化である。ローカルな民族的常習行為のさまざまなレパートリからなり、生活の場において公衆のただなかでパフォーマンスとして演じられ、受け継がれた。教科書や楽譜はない。民衆といってもさまざまなので一様ではない。バフーチンによれば、これは公式なものの向こう側にあった「第二の世界」であった。

社会の思想を議論する際に、私は、この観点が気になっていました。大学で講義される哲学や書物になっている社会思想は、多くが欧米の輸入であり、それは日本国民の多くがふだん考えている「思想」とは、大きく異なったものでしょう。
「現代日本の思想」という題で、議論をしたり本を書くならば、大学での難しい輸入理論だけでなく、国民が共有している思想を取り上げるべきだと思うのですが。例えば宗教観などは、庶民の思想の大きな部分を占めると思います。そのほかにも、政治参加意識、公共への考え方、家族のあり方、会社への帰属意識など。エリート社会思想と民衆社会思想の2つがあるのでしょう。久野収、鶴見俊輔著『現代日本の思想』(1956年、岩波新書)などは、日本の思想に取り組んだ試みだと思いますが、まだ庶民の思想を中心にしていません。
これは、学校で習う音楽にも、当てはまると思います。西洋音楽とそれを輸入した音楽を教えてもらいますが、田舎では秋祭りなどのお囃子や歌謡曲が、生活に根ざした音楽です。カラオケが、国民にもっとも受け入れられている音楽でしょう。
西欧から輸入した文化と、古くから日本にある文化の2つの流れがあり、さらに大学や学校で教える文化と民衆の生活文化との2つがある、そしてそれが共存していると考えると良いのでしょう。

覇権国家イギリスを作った仕組み、9

近藤和彦著『イギリス史10講』の最終回です。
8 碩学の成果を、こんな簡単に読める。
300ページの新書版に詰め込むには、大きすぎる内容です。近藤先生は、記述の際に、原典となった文献名や研究者の名前を載せることで、先達に敬意を表するとともに、読者にさらなる勉強のとっかかりを示してくださっています。さらに勉強したい人は、そこに出ている研究者(日本人も多いです)を、検索して、元の論文を探すのでしょうね。
また文章の中で、関連する他のページが( )書きされています。これは便利です。随所に、先生の工夫が見られます。
これだけの内容が、900円+消費税で読めるのです。お薦めです。
引き続き、先生の『民のモラル―ホーガースと18世紀イギリス』(2014年、ちくま学芸文庫)、『文明の表象 英国』(1998年、山川出版社)を、読みました。それらも、興味深かったです。その感想は、別途書きます。何しろ、この『イギリス史10講』を読んでから、思うことをこのホームページに書き始めて、1か月以上が経ちました。

覇権国家イギリスを作った仕組み、8

覇権国家イギリスを作った仕組み、7」から続く。

7 社会の問題を解決する主体は誰か
私のこのホームページでは、この本の解説(今書いている記事)を、「政治の役割」に分類しました。「社会の見方」や「社会と政治」にも分類できるのですが。
どのような国(社会)を作るのか。それが、政治の役割だと考えているので、このような分類にしました。もちろん、政治の前に「社会」があります。しかし、その社会が絶えず生み出す問題を、「誰がどのように、そしてどの方向に解決するか」。それが、その「国のかたち」を決めます。
同じ近代民主主義国、資本主義自由経済国家であっても、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、そして日本は、よってきた歴史と社会が異なり、「国のかたち」が違います。同じような代表制民主主義や三権分立という政治制度を持っていても、誰が主体となって社会問題を解決するかが、違うのです。
家族と親族、企業、地域社会、中間団体、宗教、(ここで引用した)チャリティやNPO、そして地方議会、国会、行政と。国によって、解決する主体、あるいは解決を期待される主体が異なります。
イギリスでは、議会がまずは主体になるようです。それに比べ、日本では、内閣(行政)が解決主体として期待されているようです。議会が解決方向を示すというよりは、議会が内閣を追求する、そして内閣が出した法律について付帯決議を付けるという過程が、それを表しているようです。問題が起きると、国会の不作為よりは、各省の不作為や失敗が追求されます。マスコミ報道も同じです。批判が行政に向かうのは、国民が(国会や地方議会ではなく)行政が解決することが当然だと思っているからでしょう。
明治維新と戦後改革で、日本は欧米流の国家統治の仕組みを輸入しました。しかし、仕組みを輸入することと、運用の実態とは別のようです。国会審議の実態が国によって違うことを、このページでも取り上げています。
この点については「この国のかたち」で、別途考えたいと思っています。例えば、2001年の中央省庁改革の基本を決めた「行政改革会議最終報告(平成9年12月)」に、次のような「この国のかたち」が述べられています。
・・われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない・・(はじめに
・・今回の行政改革は、「行政」の改革であると同時に、国民が、明治憲法体制下にあって統治の客体という立場に慣れ、戦後も行政に依存しがちであった「この国の在り方」自体の改革であり、それは取りも直さず、この国を形作っている「われわれ国民」自身の在り方にかかわるものである。われわれ日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、「この国のかたち」を再構築することこそ、今回の行政改革の目標である・・(第Ⅰ章 行政改革の理念と目標
これは、行政についてですが、引用した文章にもあるように、国民の意識と行動でもあります。それは、家族、社会、国会、政府の役割分担でもあるのです。
この項続く

覇権国家イギリスを作った仕組み、7

しばらく中断していましたが、近藤和彦著『イギリス誌10講』の続きです。
6 歴史の見方、書き直し
かつての歴史学が扱った「政治史、英雄の歴史」と、新しい歴史学が扱う「社会の歴史」をどう繋ぐのか。「歴史の書き直し」によって、歴史はどのように変わって見えるのか。この本は、その答になっています。先生の視点は、イギリスが直面した「社会問題」を、国家はどう解決したかです。
そもそも、この本を読んだきっかけは、近藤先生の「世界史が書き直された」という文章からでした(2014年7月6日)。その際に、かつての「英雄の歴史」ではなく、「社会の歴史」を書くとしても、その2つを繋ぐ必要があります。2つを別々に記述しただけでは、「歴史とは何か」という問に答えたことにはならないのでしょう。
すると、社会の変化が、支配者や支配階級の意図とは別の要素で起きているとしても、その社会の変化に支配者や関係者はどのように対応したのか、しなかったのか。そこに、自然発生的と見える社会の変化と、それを進める・押しとどめる・亀裂を防ぐ「人為・政治」との相互作用が、「歴史とは何か」の答になるのでしょう。私は、近藤先生の話を、このように理解しました。
さて、歴史は過去の出来事であり、既に事実となっています。それを、後世の人が見る際に、角度を変えると、こんなにも違って見えるものなのか。なるほどと思います。E・H・カーによる名言「歴史は、現在と過去との対話である」(『歴史とは何か』邦訳1962、岩波新書)を、思い出させます。
このような、社会の変化と政治(関係者の対応)との相互作用の経過と結果を歴史とするなら、それは歴史小説に書かれるような英雄と戦争の歴史ではなく、また劇的な出来事の歴史でもありません。たぶん、もっと時間は長くかかり、登場人物も有名人だけでなく(相手が社会なので)、血湧き肉躍る話ではないのでしょう。映画には、なりにくいですね。
この項続く