カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

国会の機能不全

日経新聞経済教室「問われる政策決定」、7月28日は、野中尚人・学習院大学教授の「突破型政治にもろさ。機能しない国会、元凶。本来の議院内閣制の姿に」でした(古くてすみません)。
・・もう1つの問題は国会の形骸化である。国家・社会が守るべき重大なルールは、合議制の国民代表機関たる国会が熟慮し適切な手続きを経て決定する。それが法律であり、民主主義の基本中の基本である。それなのに国会は何の役割も果たしていないではないか、という疑義である。
筆者の言葉でいえば、日本の国会の最大の特徴は「外向けに強すぎる国会」と「極端に形骸化して内実を失った国会」との組み合わせである。英仏などと比べた場合、10倍を超える長時間の国会拘束問題は、強すぎる国会を象徴している。他方で、1年間でわずか60時間程度という本会議の審議時間は、主要国の20分の1程度という驚くべき貧弱さに陥っている。
これが、1955年の保守合同以来の55年体制のもとでガラパゴス化した日本の国会システムが抱え込んだ深刻なパラドックスである。しかも長らく政府・与党の決定を追認するだけの「ラバースタンプ(ゴム印)」と揶揄され続けた参議院が、実は政府と衆議院の多数派をマヒさせかねないほどの潜在的な権限を持つこととも連動しつつ、日本の政治に破壊的な影響を与えてきたのである・・

・・前述のパラドックスを解く鍵として、ここでは与党による事前審査制の問題を考えてみよう。他国ではこの仕組みはほぼ絶無だということを、まず想起してほしい。
結論からいえば、与党事前審査は外向けに強すぎる国会と国会内部での合意主義がもたらした。戦後国会は、国権の最高機関として政府からの介入を一切排除する仕組みを獲得した。逆に政府の側から見ると、議会との緊密な連携を重要な柱とするはずの議院内閣制にもかかわらず、政府はその基本的な道具立てを徹底的に奪われたのである。
しかも国会の内部では、合意重視の慣行が積み上がり、「多数派=与党」の主導権には大きな制約がかかってきた。これらの条件のもとでは立法作業を進めたい政府官僚は深刻な困難に直面する。
さらに、後に族議員と呼ばれるようになる自民党議員の自己主張が強まってくると、政府が国会での立法活動を全く制御できなくなるのは当然の帰結であった。早くも60年代の初頭、いくつかの重要な政府法案が自民党の反対で廃案となったとき、これは現実の悪夢となったのである。
国会という自らにとって極めて不利な土俵から「逃げ出したい」官僚と、説明責任を避けつつ与党のうまみを独占し続けたい自民党は、こうして実質的な政策・利害の調整を与党での事前審査へと移したのである。必然的に、国会での審議・討論は野党による政府批判・追求という面に偏ることになった。本来の意味での与党の役割が事実上国会から消滅したからである。
こうした政府立法や予算が国会前の与党審査段階で実質的な作業を終えた後、衆議院段階では専ら野党の反対をいかに乗り切るかという駆け引きが展開され、それも終わった参議院では、形式的な審査だけが残されることになった・・
詳しくは本文をお読みください。

覇権国家イギリスを作った仕組み、6

覇権国家イギリスを作った仕組み、5」から。

・・近代イギリスはチャリティの時代といってよい。だが、この語がくせ者である。ジョンソンの英語辞典の伝統を継承しつつ、英語の歴史的用法を悉皆調査した『新英語辞典』(NED、オクスフォード英語辞典OEDの前身)でcharityを担当した編者は、1889年に当惑を隠さずこう記している。
チャリティという語は、1601年のチャリティ用益法やその後の近代のチャリティ信託諸法の定めにより、まことに広く適用されてきた。今や自ら助くることあたわざる者を支援する、あらゆる目的の団体組織のことをいう。この語の使いかたと限界はまことに恣意的で、思いつきもしくは時の必要によって全面的に変わる。
なにしろ、1601年の法律の「精神と真意」は、19世紀どころか今日まで生きていて、4つの公益、すなわち貧困救済、教育、宗教、そして「コミュニティの益となる目的」のために設立運用される基金・団体は、すべてチャリティなのである。救貧院も子どもの遊ぶ施設もエリート学寮も、内外のミッションも軍人会も、図書館も博物館も動物園も、病院も海難救援団体も自然環境団体も学会も、何か公益をうたうNGO・NPOであれば、チャリティである。慈愛よりも「信託法」による任意活動であることが要件である。チャリティの信託委員/理事の任務は、(慈愛があってもなくても)公益の推進のために基金を運用することであり、ほとんど「信用組合」のように貸付けることが期待されていた。
チャリティは国家を浸食し、干渉したと金澤周作はいう。部分的に代行したといってもよい。民間公共社会が強靱で、また国債償還のため財政赤字が逼迫して「小さな政府」をとなえるほかない自由主義時代のイギリスに、エリザベス期の法的遺産が全面開花した。民間の公益団体と小さな政府はたがいに補いあい、イギリス型近代の表裏をなしたのである。革命によって社団を否定した中央集権のフランス、あらゆる場面に行政(ポリツァイ)が顔を出すドイツとは異なるイギリスのチャリティは、イスラム社会の「ワクフ(waqf)」とどこか似ている・・(p219)
この項続く

覇権国家イギリスを作った仕組み、5

近藤和彦著『イギリス史10講』の続きです。

5 社会問題の解決に、地域とチャリティが果たした役割。
少し違ったテーマですが、興味深いものに、救貧とチャリティがあります。
(ヘンリー8世時代に国教会を作り、従来の修道院を収用して王領とします)
・・修道院の解体に伴い、貧民や捨て子は修道院に収容するという従来の道は絶たれ、世俗の代替策を見つけなければならなくなった。救貧あるいは貧民対策のための法律(poor law)がエリザベス期にくりかえし議会で審議されたのは、そのためである。その集大成として、1601年(エリザベス治世第43年)に定められた「貧民対策法/救貧法」は、教区(パリッシュ)を前提にしている。よそ者・浮浪者を教区から追い出し、婚外子の認知を判定し、クリスマスや復活祭に施しをする、といった経費と吏員の雇用を、教区の税(レイト、特定目的税)でまかなった。
教区は住民の信仰生活の核、近隣共同体であるが、近世からは世俗統治のローカルな末端でもある。全国で1万ほど、地域差は大きいが、平均すると教区人口は数百人ほどで、住民はたがいに顔も名も見知っていた。教区教会には司祭が赴任したが、住民たちは教区の寄合(ヴェストリ)につどい、世俗案件を協議した。案件のうち重要なのは道路や橋のメインテナンスと、貧民や婚外子の措置だった。地域史家W・E・テイトは、教区の寄合を近隣の「小さな議会」とよぶ・・(p100)
・・貧民対策法/救貧法の関連で見逃せないのは、同じ1601年の「チャリティ用益法」である。こちらは貧困救済、教育と宗教の振興、その他コミュニティの益のために設立され、基金や土地の収益を運用する公益団体(チャリティ)の法的根拠になった。今日の「チャリティ法」にまでその「精神と真意」は保持されている。近代史家J・イニスは、イギリスの社会政策の特徴は税(行政)とチャリティ(民間)の二本柱からなる「福祉の複合体」だと論じているが、その源は同年の2つの法律にある。
2つのうち貧民対策法の教区主義はやがて1834年に撤廃され、根本的に転換する。チャリティ用益法のほうは、教区とは無関係に、イギリス民間公共社会における400年あまりのチャリティ文化を、また活発な民間金融を法的に支えてきた・・(p101)
この項続く

オバマ大統領の政治力の低下

アメリカのオバマ大統領の政治力が低下していると、報道が伝えています。ここまで来ているようです。7月31日のNHKニュース「米議会 大統領提訴するための決議採択」から。
・・アメリカ議会下院で多数を占める野党・共和党は、オバマ大統領が議会の承認なしに大統領の権限を乱用して政策を実行しているとして、裁判所に提訴するための決議を採択しました。現職の大統領が議会から提訴されるのは異例のことです。
オバマ大統領は、議会で思うように法案を通すことができないなか、大統領令など、みずからの権限を使って、政府職員の最低賃金引き上げなどの政策を実行しています。これに対し、野党・共和党は、「職権の乱用だ」として、オバマ大統領を裁判所に提訴するための決議を提出しました・・
初のアフリカ系大統領でもあり、高い支持率で発足したオバマ政権です。早々とノーベル平和賞も受賞しました。医療保険改革法も成立させました。しかし、その後、野党共和党とのあつれきで、次第に力を発揮できなくなりました。外交政策での弱腰も含め、今や「戦後で最悪の大統領」とまで、言われています。発足当初の熱狂と比べると、その差が大きいです。
「政策」を実現するには「権力」が必要だという実例です。それは党内基盤であったり、野党との力関係、国民世論です。理想だけでは、政策を実現できません。
オバマ政権が共和党との関係に失敗し、力を失っていくのは、実は第1期政権からです。その過程は、ボブ・ウッドワード著『政治の代償』(2013年、日本経済新聞出版社)に生々しく描かれています。政策と権力、政権運営も、私の問題関心(勉強テーマ)の1つです。この本は、勉強になります(途中で放り出してあるのですが。反省)。

覇権国家イギリスを作った仕組み、4

覇権国家イギリスを作った仕組み、3」から続く。

4 王様は弱い
社会の問題を解決したのは議会であると、紹介しました。私たち日本人にとって、イギリスと言えば王室の国です。しかし、イギリスの王と女王は、目立つ存在ですが政治的には弱い存在です。君臨すれども統治せず。
まず、1649年にチャールズ1世が処刑されます。法廷で裁かれ、公開処刑です。1688年には名誉革命で、現国王を追放し、オランダから新しい国王を迎えます。議会の方針に従わない国王は、取り替えられるのです。国王は、権利の章典を制定し、自らの権限を制約させられます。
1701年には、名誉革命で作った国制を守るために、王位継承法を作っておきます。血縁関係の濃いカトリック系の王族より、血は薄くともプロテスタント系の王族を優先する規定です。それに従って、1714年には、ジョージ1世が即位します。ドイツ人であり、英語を話せない国王です。
何度か、カトリック系の王族が、王位奪還を目指して戦いを挑みます。スコットランドやフランスの応援を得てです。しかし、そのたびに王と議会の前に負けます。
議会が、国政の中心にあります。バジョットは、王と貴族院を尊厳的部分(ディグニファイド・パーツ)と、庶民院と内閣を機能的部分(エフィシェント・パーツ)と表現しました。
この項続く