カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

野党の役割

11日の東京新聞「時代を読む」は、佐々木毅先生の「全面対決と大連立の間」でした。
・・民主党が参院選で勝利した「にもかかわらず」というよりは、むしろ勝利した「ために」、民主党は与党との不断の接触、責任の分有を求められることになった・・。与党が衆参両院で多数を支配していた時期には、こうした厄介な関わりに巻き込まれる必要はなかった(野党が全面対決姿勢でも与党は困らなかった)。
与野党全面対決では国会は動かなくなり、政治は停滞する。他方、今のままでの大連立ということになれば、政治から競争が消え、結局のところは政治は生気を失ってしまう、今回の出来事から考えさせられるのは、与野党全面対決か大連立しかないのかという素朴な疑問である・・
政党政治の工夫のしどころは、むしろ全面対決と大連立という両極の間でさまざまな競争の場面をつくり、必要に応じて妥協や協力をさまざまな段階で演出することにある。もちろん、目指すところはそこでの自らの得点である。
全面対決か大連立かという発想しかないということは、こうした発想能力と演出能力が、極端に貧困であるということにほかならない・・

教育バウチャー

5日の日経新聞「教育」は、渡辺美樹さんの「教育バウチャーの意義」でした。その主張は、原文をお読みください。私もバウチャー導入論者で、渡辺さんの論旨に賛成です。競争のない世界は、進歩しません。
「教育に競争はなじまない」という反論もありますが、既に、学校では満足できず、多くの父兄が子供を塾に行かせています。また、都会では私立学校を選んでいます。教員の競争なのか、生徒の競争なのか、曖昧にした議論はおかしいです。バウチャーの趣旨は、生徒によりよい教育を提供するために、教員と学校が競争するのです。そして、公私立間の公費格差も解消できます。
さらに、「田舎では選ぶだけの学校がない」ということを、反論にされる方がいます。そのようなところまで、導入する必要はないのです。このような反論は、意味がないですね。(11月5日)

昨日、「教育バウチャー」を書きました。現在では、公立学校と私立学校への公費補助は、大きな差があるのです。学校への補助でなく、生徒(保護者)への補助にすれば、この格差は解消します。
6日の東京新聞に、「冷遇、外国人学校に光を」が載っていました。日本には既に200万人の外国人が住んでいて、その子供たちの教育が問題になっています。公立学校でなく、外国人学校に行く子供もいます。この子供と学校には、公費は投入されていません。さらに、授業料に消費税もかかるのだそうです。
「国民」じゃないから、というのが理由だそうですが、税金は取っておきながら・・。これでは、「法の下の平等」なんていっても、むなしいですね。

経済に対する司法の役割

25日の日経新聞経済教室「経済事件と司法」は、郷原信郎教授の「刑事罰、制裁機能適正化を」でした。
・・規制緩和・経済構造改革により、企業・団体の自由な活動が保障される一方で、経済法令違反に対し事後的に適正で効果的な制裁を科す「制裁システム」の整備が不可欠となっている・・
・・旧来の刑事司法は、個々の犯罪に対し適切な事実認定と科刑を行うことで基本的には事足りた。犯罪は普通でない人間の「非日常的世界」であり、それに関する司法判断が、社会生活や経済活動に一般的影響を与えることはまれだった。
しかし、経済社会のルールの実効性を担保するための制裁を刑事処罰によって行うのなら、そこで示される判断は、個別の事件についての適切さだけでなく、経済活動に対して広く適用されるルールとして普遍性を備えたものでなければならない。またそこでは、犯罪を、取引相手の具体的被害という観点ではなく、それが市場の公平さをいかに害したのかという「市場法的観点」中心にとらえる必要がある。
そうした方向で刑事司法を経済社会における制裁システムとして適正に機能させるには・・・(続きは、原文をお読みください)
経済活動の変化に応じて、立法や行政がルール設定を行います。それだけでなく、司法の役割も重要だということですね。

教育の転換

28日の日経新聞連載「日本の教育」「学びの針路を示せ」から。
・・ゆとり教育を含む1970年代以降の教育改革は、明治初期、太平洋戦争直後に次ぐ「第三の教育改革」と呼ばれる。明治と戦後の改革は、それぞれ「富国強兵」「民主国家建設」といった大目標とつながり、教育が発するメッセージは明快で、人を律する動機づけにもなった。教育を受けた人材が社会革新や経済発展に携わる姿が、親世代の教育熱、子世代の学ぶ意欲を支え、教室に緊張感を生んだ。そんなダイナミズムが、今の教育にない・・
・・方向を失った日本の教育が、目標を打ち立てるのは容易ではない。作家の堺屋太一氏は「教育のあり方がわからなくなった」と言う。物材の豊かさが幸せを意味した規格大量生産の時代は、共通の知識・技能を持ち辛抱強い人材を育てればよかった。主観的な「満足」が幸せの尺度になった現代では、この手法は通用しない。どういう教育を施せば子供が幸せになるか、一義的に定まらなくなった。堺屋氏は「望ましい教育の姿がわからないなら、教育の消費者である保護者や子供に選ばせるべきだ」と主張・・

私が主張する「日本社会と行政の転換」と合致した主張です。ただし、戦後の教育の目標が「民主国家建設」とありますが、それよりは、豊かになるための労働者の創出の方が、主だったと思います。多くの家庭では、民主主義よりは、豊かになることが重要だったのですから。
そして、明治と戦後の転換には、欧米という目標・お手本があったのに対し、今模索している転換の目標は、「目標と幸せを探すこと」なのです。教育は、目標を次なるものに取り替えるのではなく、各人の目標探しを目標とするという、パラダイムの転換が必要なのです。日本の教育行政は、それに失敗しているようです。

日本の政権交代・社会勢力の争いではなかった

フランスの社会学者エマニュエル・トッドさんの発言(2009年10月21日、日経新聞夕刊)。
・・日本の政権交代に驚いたのは、近年のヨーロッパの動きとは、まったく異なるからだ・・しかも予想外だったのは、私が知る限り、年齢や社会階層による支持政党や投票行動に、大差がなかったことだ。フランスなら若者や労働者は、左派を支持する傾向が明確にある。してみると、日本は一つの「全会一致」から別の「全会一致」に変わっただけで、ある勢力の勝利によって過去を完全に断ち切ったのではない、と言えそうだ・・