カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」第188回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第188回「政府の役割の再定義ー重ねた被災地訪問と信頼関係の醸成」が、発行されました。前回に引き続き、東日本大震災対応の経験をお話しします。

大きな仕事を進めるために、与党提言を活用し、安倍首相にも動いてもらいました。
私が意を用いたことに、職員に現場を見てもらうことと、被災自治体との信頼関係を作ることがありました。
霞が関の官僚には、現場を見る経験がない、少ない職員もいました。しかし災害復旧、しかも新しい政策を作らなければならないときに、現場を見ずしてよい案を作ることはできません。
復興庁は、当初は被災自治体からよい評価をもらうことができませんでした。その後、評価が上がりました。現場で復旧工事が進んでいないのにもかかわらずです。それは、復興庁職員が現地に出向いて要望を聞き、できることとできないことを整理して、できることから取り組んだからだと思います。

もう一つ難しかったのは、原発事故対応です。
原発事故は、政府が政策の誤りで特定地域に多大な被害を与えた事例なのです。その点では、太平洋戦争での沖縄戦と比較することができるでしょう。被害者である福島県と市町村、その住民が、方針や対応において判断を誤った政府に対して怒りを持つことは当然です。
原発事故被災者の政府に対する怒りには、2つの原因があります。一つは、政府が安全だと言っていた原発が爆発を起こしたこと、政府が十分な安全策をとっていなかったことです。もう一つは、原発事故が起きた後に、正確な情報が伝えられず、住民の避難誘導も十分でなかったことです。
事故後の現地では、原子力被災者支援チームの職員たち、主に経済産業省の職員が、被災者や自治体との対応に当たりました。自治体と住民の間に政府への不信感が強くありました。支援チームの職員たちが事故を起こしたわけではありません。しかし、政府としての責めや省としての批判を一身に背負って現場に入り、頭を下げ、厳しい言葉を浴びながら、要望を聞き、失われた信頼を再建する作業をしたのです。彼らの努力と苦労には頭が下がります。「角野然生著『経営の力と伴走支援』

連載「公共を創る」第187回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第187回「政府の役割の再定義ー震災復興、政治主導の在り方と官僚の仕事」が、発行されました。前回に引き続き、東日本大震災対応の経験をお話しします。大震災対応については、本に書いたり、この連載でも冒頭に書いたのですが、今回は特に私が事務方の責任者として、幹部官僚として何を考えたかを書きました。

被災者支援の次は、公共インフラの復旧と公共サービスの再開を急ぎました。町が流され、その場所は危険なので、高台移転などこれまでにない大きな計画と大工事を行いました。これはこれで大変だったのですが、各省が頑張ってくれました。
ところが、その工事が進むにつれ、それだけでは町のにぎわいが戻らないことが分かってきたのです。生業と産業が再建されないと人は暮らしていけず、活気と人のつながりが戻らないと人は孤立するのです。そこで、災害復旧の哲学を「国土の復旧」から「生活の再建」へと転換しました。

もう一つ実務の責任者として考えなければならないことがありました。政治との関係、政治主導との関係です。
民主党政権は官僚を排除した政治主導を唱えていました。しかし、政治家には政治家の、官僚には官僚の役割があります。そして、被災者支援や災害復旧について経験と知識を持っているのは官僚です。私は「官僚の力量を示そう」と同僚や部下に話しました。大臣や官房副長官も、私たちに任せてくださいました。
自民党が政権に復帰してからは、大島理森・自民党復興加速化本部長(後に衆議院議長)の指導の下、与党提言をまとめていただき、それを総理が受け取り、政府が実行する仕組みを作りました。政治指導、政府与党が一体となって政策と事業を進めるよい形だったと自負しています。

連載「公共を創る」第186回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第186回「政府の役割の再定義ー幹部官僚としての心構え」が、発行されました。第183回から、私が所管を越えて広く日本のあり方を考えるようになった経験を話しています。

今回は、前回に引き続き麻生総理大臣の秘書官の経験、そして2011年の東日本大震災対応の経験を書きました。
総理秘書官は国政の全般を見なければなりません。そして当時は、リーマン・ショックという、世界恐慌にもなりかねない事態に対応する必要がありました。日本が思い切った政策を打つだけでなく、各国に政策協調を呼びかけたのです。

東日本大震災では、これまでにない大災害なので、前例どおり・法令どおりが通用しませんでした。しかも、対応は急を要します。政府全体を動かす「仕切り役」「手配師」を務めました。私の言動は、「霞が関の治外法権」「永田町の治外法権」とも呼ばれました。名誉なことです。

連載「公共を創る」第185回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第185回「政府の役割の再定義ー広く日本の在り方を考える必要性」が、発行されました。
第183回から、私が所管を越えて広く日本のあり方を考えるようになった経験を話しています。

今回は、1993年に、カンボジア国連平和維持活動で警察官が死亡した際に国家公安委員長に同行した件。1998年に、中央省庁等改革推進本部事務局で全省庁の課の数を削減した作業。2006年から、自民総裁候補のマニフェスト作成に参画したこと。2006年に、経済財政諮問会議に関与したこと。2008年の総理秘書官の経験を書きました。
このあと、東日本大震災の経験が続きます。

こうして振り返ると、自治省に入ったのにそれを越えて、国家官僚としてさまざまな広い経験をさせてもらいました。官僚生活の後半は、私の「本籍」であった自治省(総務省)財政局ではなく、内閣府や官邸などでの仕事がほとんどでした。「内閣官僚」と自称しています。

このことは、日経新聞夕刊一面コラムにも「内閣官僚」として書きました。
・・・1978年に自治省に採用され、2016年に復興庁事務次官を退任した。38年間の勤務のうち、自治省と再編後の総務省で16年、自治体勤務が11年、内閣、内閣府、復興庁が11年になる。後半は、省庁改革本部、総理秘書官、復興庁と、内閣の近くで仕事をすることが多かった・・・
その後の内閣官房参与・福島復興再生総局事務局長の4年余りを入れると、内閣近くでの仕事の期間は、42年のうち15年とさらに長くなります。

連載「公共を創る」5年

連載「公共を創る」が、2019年4月25日から掲載を始めて、まる5年になりました。6年目に入るということです。180回を超えました。
最初の頃は毎週木曜日に、最近は月3回木曜日の掲載です。よく続いたものです。お付き合いいただいた読者の方々に感謝します。右筆、校閲担当者、編集長には、もっと感謝しなければなりません。

当初は半年くらいかなと思っていたのに、なんと6年目に突入です。なぜこんなに長引いたか。目次を見ると、第4章2社会と政府、3政府の役割の再定義が、長くなっています。

第1部 町とは何か
第1章 大震災の復興で考えたこと(第3回~23回)
第2章 暮らしを支える社会の要素(第24回~38回)
第2部 社会は変わった
第3章 転換期にある社会(第39回~70回)
第4章 政府の役割再考
1 社会の課題の変化(第71回~96回)
2 社会と政府(第97回~150回)
3 政府の役割の再定義(第151回~)

長くなると、以前に書いたところを探すのに手間がかかります。「確か、この項で書いたはずなのだけど」と。
先日の「連載「公共を創る」執筆状況」で書いたとおり、毎回、難儀しながら書き続けています。もうじき完結する予定なのですが・・・。
「「公共を創る」連載4年」「「公共を創る」連載3年