御厨貴先生の『戦前史のダイナミズム』(2016年、左右社)は、放送大学教材を再録したものです。
冒頭の、近代日本史の論争についての説明と評価が、勉強になります。
・・・というのも、高度成長の果実が実り出した1960年代以来、学者の領域と小説家・ノンフィクション作家の領域とに、暗黙のうちに二分されていた歴史の世界の境界が、これら新規参入者たちの活動によって、曖昧になり、その再編の可能性が生じているからです。
一般読者に読まれることのない学者の著作と、学者が読まぬふりをする作家の物語というすみわけ。こんな不毛な事態が続いたのは、やはり学者の側の責任が大きい。知る人ぞ知る存在たるべしという権威主義と、学会内の世界がこの世のすべてと思い込む夜郎自大性とが相まって、一方で空虚な理論研究に、他方でマニアックな実証研究に自らを封じ込めていったからです・・・(p4~)
・・・学者の著作が読んで面白くないと評された60年代以来、学者はかえって専門の世界に閉じこもってしまった。そこでは近代史全体を見渡すことなく、小さな歴史事象一つひとつの「証明」に追われています。
時に空虚なイデオロギーと小さな事柄の「解釈」をドッキングさせての検証、まずはご苦労さま。時に歴史観まったくなきままの、事実の「証明」を終えて業績がまた一つ。しかも「証明」と「解釈」をきちんと読むためには、ルーペが必要とされるではないか・・・(p8~)
(2016年11月5日)
カテゴリー別アーカイブ: 歴史
名著の位置づけ
玉木俊明著『歴史の見方 西洋史のリバイバル』(2016年、創元社)が、面白かったです。ヨーロッパ経済史が専門の著者が、西洋史について、特に日本における西洋史の盛衰について書いた本です。
第1部は、近代西洋経済史のいくつかの名著についての書評です。これが、単なる内容の紹介でなく、その本が書かれた時代背景や現在から見た限界を書いているのです。これは、勉強になります。
私たちも、それぞれの分野で名著を読みますが、それがなぜ名著なのか、その本を読んだだけではわかりません。それまでの通説を打ち破ったり、パラダイムを変換したりしたことが、名著に位置づけられるゆえんでしょう。単にそれまでの学界の研究成果をまとめただけでは、概説書や教科書です。そして、その後の研究によって、その名著がどのように乗り越えられたか、今もなお影響力があるとするなら、それはどの部分なのか。門外漢には、わかりません。
玉木先生の試みは、優れたものだと思います。名著=正しいと思っていた私たちに、「あの名著も、その後の研究で、間違っていたとわかった」「このような点が、欠落していた」など厳しい指摘がありますが、それが勉強になります。
第2部は、近代西洋経済史の主要な論点の解説と、日本人が西洋史を研究し日本語で論文を書くことの意味を論じています。これも、一読をお勧めします。これも、興味深いです。
ラース・マグヌソン著『産業革命と政府―国家の見える手』(邦訳2012年、知泉書館)が紹介されています。「神の見えざる手」は、アダム・スミスが『国富論』で主張した市場経済の機能ですが、それだけでは経済の発展はなかった、国家の介入が必要であったことを主張したものです。「国家の見える手」は、よい表現ですよね。使わせてもらいましょう。(2016年10月8日)
学問を進化させる社会の条件、中山茂先生
先日、その一部を紹介しましたが、中山茂著『パラダイムと科学革命の歴史』(2013年、講談社学術文庫)が勉強になりました。科学の進化には、通常科学と科学革命があること。すなわち、社会の常識となっている自然の見方(パラダイム)を科学革命が壊し、新しいパラダイムを設定します。コペルニクスであり、ニュートンであり、アインシュタインです。そして、その後の科学者は、そのパラダイムの下で、それを精緻化する作業(通常科学)をします。そして、次の科学革命が起き…と繰り返されます。
そのほか、どのような要素が、科学の進化に影響を与えたかが、社会学的に分析されています。中国官僚制(科挙)と紙と印刷技術が、学問を固定化し訓詁の学を生んだこと。それらがなかった、あるいは遅れたイスラムと西洋では、話すことで学問が進んだことなど。なるほどね。
17世紀以降の科学の進化と、学会の役割、大学の機能、大学院の機能。これらが、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの順に、それぞれが置かれた歴史、社会的背景から勃興してきたこと。それらを19世紀に「輸入」した日本の場合。その輸入学問の効率性と限界が指摘されています。
科学や学問の進化が、それを生みだす社会とどのような関係にあるのか。大学や大学院の機能と限界、日本の学問の限界などが、わかりやすく解説されています。これまで断片的に知っていたこと、何となく考えていたことが、理路整然と説明されています。随所で、なるほどと思います。社会学、歴史として、とても面白い本です。文庫本で読みやすく、お勧めです。基となった本は、1974年に出ています。もっと早く読めば良かったです。反省。
演歌から見た日本社会論
5月21日の朝日新聞オピニオン欄「演歌は日本の心、か」は勉強になりました。
スージー鈴木さん(音楽評論家)
・・・演歌が日本の大衆音楽における伝統だと言えば言えないこともないでしょう。ただし明治以降の「伝統」です。
明治維新後の日本に西洋音楽が入ってきました。長調ならドレミファソラシの7音音階、半音も入れて12音音階。この音階は、当時の日本人には複雑でした。
そこで第4音のファ、7音のシ(短調ならレとソ)を使わない5音音階、いわゆる「47(ヨナ)抜き」がつくられます。これは西洋音楽の日本的解釈、いわば土着化で、西洋の音階に慣れない日本人にとって実に歌いやすい。ある研究によると、1928年から45年までの流行歌は約75%が47抜き音階だそうです・・・
・・・60年代、ビートルズが登場、日本の大衆音楽に絶大な影響を与えます。ビートルズの落とし子とも言えるグループサウンズ(GS)が、7音音階をフルに使う、あか抜けた曲で、若い人たちの間で大人気となります。でも5音音階に慣れ親しんだ人たちはついて行けない。「洋風」のGSに対抗するための論理が、復古派による「演歌は日本人の心」という説です。ぴんからトリオや殿さまキングスの「ド演歌」が復古派の需要をすくい取り、成功しました。
しかし70年代後半、明治以来100年以上、続いた5音音階の時代は終わりに近づきます。松任谷由実や桑田佳祐が7音、12音を巧みに使い、洋楽並みの複雑な音階で大衆を支配したのです。一種の「革命」でした・・
大澤聡さん(批評家)
・・・「演歌の伝統」と言う場合の伝統とは何でしょう。伝統はつくられるものです。さかのぼれば、たいてい歴史が浅かったり作為だったりという事実が判明します。では、なぜ伝統の創造が可能なのか。いつ必要とされるのか。むしろ見るべきはこの2点です。
1点目ですが、これは私たちが忘れっぽいという点に尽きます。私は日本の言論の歴史を研究していますが、「言論の影響力が衰退している」といったタイプの言説はどの時代にも見られます。
戦後、丸山真男や清水幾太郎らの思想家が活躍した時代があった。今では、言論の黄金時代と考えられています。けれど、当時の新聞や雑誌をひっくり返すと、実は大知識人の不在が嘆かれている。セットで昭和戦前期が称揚されています。
そこでその時期を調べてみると、今度は大正期の文明批評家の総合性が理想視され、同時代の知識人の専門化が批判されている。夏の道路の逃げ水のように、「良い時代」はどんどん前の時代に逃げていってしまうわけですね。
「昔は良かった」式の昔は実態を伴いません。伝統はこれに近い。現在や近過去は記憶も鮮明なのでアラが目につきます。でも、2世代前となるともう思い出せない。そもそも知らない。だから、良い記憶や情報だけを合成して理想像をつくりあげやすい。ノスタルジーの基本構造ですね。「演歌は伝統」も同様の論理で理解できるでしょう・・・
すばらしい日本社会論、日本文化論になっています。ごく一部を紹介しました。原文をお読みください。
大学の研究者や評論家がヨーロッパの思想や音楽論を輸入して、議論することを否定しませんが、カラオケに興じている多くの「大衆」とは別の世界です。大衆文化を抜きに、社会や思想を論じるのは、日本社会論や文化論ではないですよね。多くの「日本の思想」と銘打って行われている議論は大衆を忘れていると、私は考えています。
アメリカ人の意識調査、日本は謝罪したか
先日紹介した、滝田洋一著「世界経済大乱」(2016年、日経プレミアシリーズ新書)から、興味深かった点を紹介します。
アメリカの有力シンクタンクのピュー・リサーチ・センターが、2015年2月に実施したアメリカ人への意識調査結果です(p176)。アジア太平洋地域の主要4か国について、信頼できるかの問です。オーストラリアが80%、次いで日本が68%、韓国は49%、中国は30%です。
興味深いのは、第2次世界大戦の謝罪についての問です。三者択一で、日本は「十分に謝罪した」が37%程度、「謝罪は不要」が24%程度、あわせて61%です。他方、「不十分」が28%程度です。ドイツにも同じ質問をしています。「十分に謝罪した」と「謝罪は不要」をあわせて、54%です。「謝罪が不十分」は、37%程度あります。
日本では、「ドイツはよく謝罪したのに、日本は不十分だ」との意見をマスコミで聞きますが、この調査に関する限り、そうではないのですね。その後「改心」して、アメリカの言うことを聞く「優等生」日本と、必ずしも言うことを聞かないドイツとの差でしょうか。