カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

人間の二つの思考方法

2021年12月30日の日経新聞経済教室、鳥海不二夫・東京大学教授の「「情報的健康」目指す仕組みを データから社会を読む」に、人間の二つの思考方法についてわかりやすい説明がありました。

システム1は、暗黙的システムと呼ばれ、無意識かつ自動的に判断を行う仕組みです。直感的な好き嫌いで、情報を判断します。動物的といえます。面白い情報や好きな情報を選びます。
これに対しシステム2は、明示的システムであり、数値などを精査して判断する、合理的な仕組みです。あらゆる情報をじっくり考えて意思決定をします。ただしシステム2は脳に負荷をかけるので、通常私たちはシステム1をつかって生活しています。

バラスの取れた食事がよいと知っていながら、甘い高カロリーのお菓子を食べてしまいます。深酒はいけないと考えつつ、飲み過ぎます。インターネットでサーフィンをするときも、同じです。

「エビデンス至上主義」の危うさ

朝日新聞デジタル医療サイト、失敗学の畑村洋太郎さんの「「考え」ない菅首相、その罪深さと正しさ」(9月12日)の後段から。

・・・僕は東京電力福島第一原発事故の政府の事故調査・検証委員会の委員長を務めたけど、失敗の原因をさぐるためには、なぜこんなことが起きたのか、「推測する力」が必要な場合もあるんだ。
ところが今の科学は、推測で書いているようなものはどんどん排除しようという方向になっている。「エビデンス」などといって、証拠がないことを発言してはいけない、という空気も強まっているように思う。
でも、そういう考え方の制約を外さないと、正しい考え方はできないんじゃないか。

委員長をやっていたときに開いた国際会議の中間報告書で、僕は「あり得ることはこれからも起こる」「あり得ないと思うことも起こる」と書いた。
そしたら、フランスのラコステ原子力安全庁長官が「『思いつきもしないことさえ起こる』というのも足さないと、人間が考えるすべての領域を全部、採り上げたことにならないぞ」と言ってくれた・・・

本能

小原嘉明著『本能―遺伝子に刻まれた驚異の知恵』 (2021年、中公新書)を読みました。本能とは何か、昔から気になっていました。
ウィキペディアでは「現在、この用語は専門的にはほとんど用いられなくなっている」とも書かれています。でも、昆虫や動物が親から教えられなくても、歩いたり飛んだり、餌を取り、生殖します。学習しなくても、複雑な行動をすることは、本能なのでしょう。

この本には、いくつもの驚くような行動が書かれています。しかし、まだまだわからないことが多いようです。長い進化の歴史の中で、それぞれの種が身につけたのでしょうが。遺伝子や脳の働きといった「仕組み」の解明は進んでいません。「まだわからないことが多いのだな」ということがわかりました。

本能という言葉が避けられるようになったのは、人間の行動や性格を、十分な根拠もなく「本能だから」と説明したからではないでしょうか。科学的に解明されていないことを、不正確な俗説で決めつけるのは、話は早いのですが、有害な場合もあります。

モノとコト

モノとコトという表現、あるいは「コト消費」という言葉を、聞かれたことがあるでしょう。でもコトって、何の意味かわかりますか。いろいろ考えてみました。専門家はまた違った解説をするのでしょうが、門外漢の私の理解を説明しましょう。

まず「コト消費」から。
ウィキペディアによると、コト消費は「一般的な物品を購入する「モノ消費」に対し、「事」(やる事・する事、出来事=出来る事)つまり「体験」にお金を使う消費行為のことで、特に非日常的(アクティブ)な体験が伴う経済活動を指す」とのことです。
体験型の消費とは、一方的にサービスを受ける、例えば散髪などと異なり、消費者が参加する体験型のサービス商品ということでしょう。
でも、そのような視点から商品を分類すると、モノとサービスがあり、そのほかに権利とか情報なども商品として扱われます。このサービスの中から、体験型の商品を特に「コト消費」と名づけたのでしょう。商品として売る際には、わかりやすいのでしょうが。

かつて、社会学の先生に、その違いを教えてもらったことがあります。「モノ」と「コト」の区別は、もともとはアリストテレスなどにある言葉だそうです。人間の外に実在するのが「モノ」、人間の心の中にあるものが「コト」で、過去や未来、観念などです。
それはひとまず置いて、現代社会を観察する際のモノとコトの区別は、私の理解では次の通り。
質量があるのが「モノ」、質量がないのは「コト」。コトとは、モノとモノの相互作用のこと。

社会科学は、「人(個人)とその関係」を研究します。モノに当たるのが「人」で、コトに当たるのが「人と人との関係」です。
自然科学、特に物理学では、対象を物質と運動に分解して考えます。物質がモノで、運動(これも物質間に働く力で関係と見ることができます)がコト。
厳密な科学的説明ではありませんが、私たちが世間を理解する場合には、このような切り口が有用でしょう。

社会の意図した変化と意図しない変化2

社会の意図した変化と意図しない変化」の続きです。
意図して変えた社会の変化には、政府などが主導してつくってきたものと、住民たちがつくったものとがあります。指示の主体が明確なんものと、そうでないものです。

教育内容は、政府が決めています。それによって、国民の知識やものごとの判断基準ができあがります。ごみの分別収集は、自治体が決めています。国民や住民はそれに従っています。この場合は、方向性がはっきりしています。宗教団体による教化も入れておきましょう。
これに対し、住民たちが意図して作ったものは、挨拶をするなど、地域の風習であり、気風です。民度にもなります。だれがどのように主導したかが明確でない場合が多いです。
一部の人や一部の地域で「このようにしましょう」と始まり、広がっていくのでしょう。地区の祭りや共同清掃。エレベーターの片側を急ぐ人のために空けておくこと(最近は、鉄道会社が「手すりにつかまって、歩かないでください」と呼びかけています)。

人間関係だけでなく、例えば街並みの景色も同様です。各建築主が、住宅や事業用の建物を建築します。それら建物は、(建築基準法の下で)それぞれの建築主と依頼を受けた設計・施工者の意図によって建てられます。そこには、設計があります。
では、それらが集まった街並みはどうか。それは、設計によってはできていません。(都市計画法の規制の下で)形や色彩、風合いが異なる建物が並んでいます。かつての、建築技術や素材が発展していない時代なら、その土地での共通した建築物が並びました。しかし、技術と素材の進化は、さまざまな建物を可能にしたのです。

さて「公共を創る」に戻ると、農村や発展途上時代に作られた私たちの考え方や風習は、成熟社会には適合しません。自由だけど孤独な暮らしに対し、どのようにして安心を確保するのか。成熟社会に適合した考え方や通念はどのようなものか。そして、風習や気風を、どのようによい方向に変えていくか。

なお、個人個人の意図は悪くないのに、それを積み上げると全体の結果が悪くなる場合は、経済学では「合成の誤謬」と言い、政治学では「部分最適が全体最適にならない」と表現します。参考「作為の失敗、不作為の失敗
少々まとまりの悪い文章になりましたが、ひとまず載せておきます。