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家は配管だらけ

先日、鈴木博之青山学院大教授の「建築の骨格と循環器」(東大出版会PR誌「UP」2009年4月号)を紹介しました。実はこの論考の趣旨は、建築を、骨格と見るか循環器と見るかの、話なのです。
・・現代の建築にとっての機械とは、構造体を決定する要素であるよりは、建築の内外を制御する技術、古くさい言い方をすれば空調設備、現代風に言えば環境制御技術を意味するであろう。建築における環境工学は、いまや工事費の半分近くを占める重要な技術なのだ。冷暖房、空気清浄化、給排水、照明、音響など、建築の中を駆け巡る血管やリンパ腺などに相当する部分が、環境工学の守備範囲である。建築においては、いまや骨格よりも、循環器、血管といったフローの要素が重要であると考えられている・・
この文章を読んだ時に、「なるほど」と思いました。それと同時に、わが家を立てた時のことを、思い出しました。小さな家の骨組みができたあと、いろんな管が、引かれるのです。電気はもちろん、電話、テレビが各部屋に。そして、水道、給湯、排水管が、台所、お手洗い、風呂に。色とりどりの管が、整然と配管されます。わが家は、家の中にはガスを引き込まず、屋外の給湯器だけだったので、ガス管はなし。その代わり、将来に備えて、インターネットを通す管を、入れておきました。これは正解でした。
これらの配管を見た時、びっくりしました。これだけも、管があるのかと。さらに、道路からわが家に、それぞれの管が接続されます。電線、電話線、インターネット、ケーブルテレビ。空中だけでも、これだけの線が引き込まれました。
家というのは、単なる容れ物ではなく、いろんなサービス供給端末の集まりなのだと、気がつきました。子どもの頃、親類や近所の普請を見ていたのですが、その時は気がつきませんでした。かつて、引き家というのを見たことがあります。おもちゃの家は、ブロックの固まりですが、実際の家は、そうではないのです。動かそうとしたら、いろんな管が邪魔になります。さらに、基礎杭を打ってあるので、とても動かせませんがね。

改革を支える思想、他律的改革・自律的改革

11日の日経新聞経済教室は、西出順郎准教授の「国立大学改革の方向、企業家精神で経営力強化。独自の思想を原動力に」でした。
・・国立大学、特に規模が小さい地方大学は、教育研究活動や管理運営改革に全力を注いでいる。だが実際は、もっぱら付け焼き刃的で表層的な作業に追われていることはないだろうか。
この受け身的な改革姿勢はなぜ生じるのか。・・その根源的な理由はより内面的、精神的な部分に依拠しているように思われる。すなわち、「改革思想の脆弱性」である。ではなぜ、国立大学改革の思想的高まりがなおざりになったのか。想起される理由は三つある。
第一の理由は、法人化にいたる国立大学改革が新保守主義的思想を背景にした中央政府の行財政改革に主導され、独自の改革思想を形成できなかったことだ。・・国立大学は、政府の論理に押し切られ、自らの存在意義を主張する改革思想が構築できなかったのではないだろうか。したがって、法人化という国立大学改革は、他律的思想のもとでの改革に終始し、政府行革の「改革客体」から脱却することなく、国立大学が「改革主体」を演じることはなかったのである。
第二に、新保守主義的思想という議論の土俵においても法人化論議を主導せず、結果的に独自の改革思想の芽をつみ取ってしまったことだ。・・高等教育という公共財が政府の守備範囲としてどう再定義され、私立・地方自治体立大学との補完性においてどう位置づけられるのか、国立大学が率先して論陣を張ることは希有であった。
第三は、法人化後の新たな国立大学改革が要請される中、他律的な改革思想が逓減する一方で、その代替思想が顕在化しなかったことだ・・
このほか、公務員制度改革なども、この批判が当てはまるようです。

社会を理解する型

東大出版会PR誌「UP」2009年4月号に、鈴木博之青山学院大教授が、連載「近代建築論講義4」として、「建築の骨格と循環器」を書いておられます(古くなって申し訳ありません。読んだ時に書くのを怠ったので)。
・・近代は機械の時代であるという認識は、20世紀の常識だった。機械が近代を切り開き、機械のアナロジーが組織論から美学にいたるまで、時代の精神として広く用いられた。初期の機械は可動部分が目に見える、蒸気機関のようなハードウエアむき出しの機械だった。
しかしながら、20世紀後半になって、機械が電子化されてくると、古典的な機械の概念は急速に色あせていった。電子化された機器は可動部分がほとんど目に見えず、作動しているかどうかは結果を見て判断するといった状況になった。電子化した機械はハードウエア部分より、ソフトウエアに重要性があるのだった。
・・機械のアナロジーによって組織や美学を語ることは、現代ではほとんど意味をなさない・・
先生はこのあと、建築について、機械のアナロジーを議論しておられます。しかしこの議論は、先生がおっしゃっているように、私たちが、広く社会やものごとを理解する際の「型」に当てはまります。
「時代の精神」として言うならば、ものごとは、機械と同じように、個人や市民が理解できることです。そして、努力すれば作ることができるもの、改良できるものでした。機械のアナロジーは、ものだけでなく、社会の仕組みにも適用されるのです。「社会は、市民が改良できるもの」というようにです。
しかし、電子化されると、個人では理解不能、努力しても作ったり改良したりできないものになります。たとえば、機械式の時計の内部を見れば、子どもも、その動きが理解できます。しかし、電子時計では、分解しても、動きは理解できません。それが、身近な機械だけでなく、対象が社会一般に広がることはないでしょうか。
ところで、機械式の腕時計なら、スケルトンで中が見えるものも売れます。歯車の動きが、面白いのです。でも、電子式じゃ売れませんよね。見ていて、面白くないでしょう。

3連休

3連休が、始まりました。今日は10月10日。かつては体育の日で、晴れの日が多い特異日でした。東京は、午前中に小雨が降りましたが、午後からは、よい天気でした。
今日は、上野の博物館へ。先週も、先々週も、美術館に出かけました。この1年間、展覧会などに出かける、時間と心の余裕がありませんでした。今は、ゆっくりと、楽しませてもらっています。