みんながするから、みんながしないから

「みんなが持っているから」というのは、こどもが、欲しいものをねだるときの決めぜりふです。よくよく聞くと、友達2~3人が持っているだけだったり。
服装や化粧品の宣伝で「あなたの個性を際立たせましょう。今年の流行は・・・です」という、矛盾したものもありました。企業が宣伝する流行に合わせれば、個性は埋没します。最近、電車の中で若い女性を見ていると、皆さん同じような化粧をしていて、区別がつきません。

周囲に会わせておけば無難で、自分で考える必要もありません。みんなと違ったことをすると、冷たい目で見られたりいじめに遭うこともあります。しかし、かつて「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というお笑いのネタもありました。自分の頭で考えず、みんなに従っていると、痛い目に遭うこともあります。

商売も同じでしょう。「みんながやっているから、私も始める。」そこそこうまくいくかもしれませんが、ある段階で、パイの奪い合いになります。みんながやっていないことに挑戦すると、うまくいかないこともありますが、大成功することもあります。
科学者も、みんなと同じことをしていては、大きな発見はないでしょう。

子育てや介護の評価、経済学の罪

6月28日の朝日新聞「ケア労働、報酬と評価を正当に 岡野八代さんに聞く」から。

・・・ケアワーカーとして働き続け、ひとり親として子育てや親の介護を担ってきた女性が、高齢期に経済的な苦境に陥ってしまう――。誰もがケアなしで生きられないのに、なぜケアは社会的、経済的に評価されにくいのか。同志社大学大学院教授で政治思想研究者の岡野八代(やよ)さん(フェミニズム理論)に、この問題の根底にある歴史的、社会的な要因について聞いた・・・

・・・ケア労働が市場経済のなかで軽視され、評価されないのはなぜか。いくつかの要因が重なり合っているが、まず資本主義の進展にともなう歴史的な背景があると思う。
資本主義経済で富をたくわえるには、商品である労働力をできるだけ安く確保する必要がある。そのために、労働力の再生産につながる家事や育児といった「再生産労働」はタダで、生物学的な「産む性」の女性が担うものとされてきた。
女性による再生産労働、つまり家庭でのケア労働は、経済的に評価されないまま国家と資本家に搾取され続けてきた。いまの日本でも、ケア労働を女性にタダで押しつける社会構造が根強く残っている。

次に、ケア労働は、自動車などの商品の生産活動と違って、何を作ってどんな価値を生み出しているのかが見えにくい、という特徴がある。つまり、市場経済ではその価値を測ることができない。
さらに保育や介護について言うと、そのサービスを利用する乳幼児や高齢者には、サービスを提供する公的な制度を支える費用を支払う能力がないか、不足している。
サービスにかかる費用をどう見積もり、誰がどのぐらい負担するか、といった点は、常に政治の課題になる。ケアの提供者にいくら報酬を払うか、その値段は政治的に決まる。
ところが日本の政治家は、自分自身では家事も育児もしたことがないという男性があまりに多い。
自身はケアを担わなくてもよく、誰かにケアを押しつけておくことができる「特権的な無責任」の地位でいられる者が、ケア労働を過小評価している・・・

連載「公共を創る」第156回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第156回「福祉提供国家から安心保障国家へ」が、発行されました。前回「生活者省」の設置案を説明しました。今回は、生活者省の役割、自治体への影響などを説明します。

次に、もう一つの行政の役割の変化を説明します。それは、福祉提供国家から、安心保障国家への転換です。
まず、目標が福祉から安心に変わります。現在問題になっている孤立や孤独、社会生活で自立できない人のためには、福祉の提供では問題は解決しません。安心を保障しなければなりません。
そして、政府が自らサービスを提供する方式から、政府がサービスの提供と質に責任を持ちつつ、その実施については民間を利用する方式へ変わります。そして、民間の提供を含め、その量と質に責任を持つことが、政府の役割になります。
すると政府の役割が、提供者の論理から、生活者の論理に変わることが見えてきます。

国と地方の役割再定義

7月12日の日経新聞オピニオン欄に、斉藤徹弥・上級論説委員の「国と地方を再定義する覚悟 金利と賃金が改革促す」が載っていました。

・・・地方分権を動かす契機となった1993年6月の地方分権推進に関する国会決議から30年。折しも岸田文雄首相が「令和版デジタル行財政改革」を掲げ、国と地方の役割を再定義すると表明した。
「国を頂点とする上意下達の仕組みを、国がデジタルで地方を支える仕組みに転換する。国と地方の役割を再定義していく」。首相は6月21日の記者会見でデジタル行財政改革を通じて国と自治体の関係を見直す考えを示した。
デジタル行財政改革は、国がデジタル基盤を整備し、それを使って自治体やNPOが国民に個人単位できめ細かい行政サービスを提供するものだという。デジタル庁がめざす電子政府の姿であり、これ自体に違和感はない。
行政改革を、国と自治体のあり方の見直しにつなげる視点も悪くない。地方制度の大きな改革は、政治に行政改革の機運が高まったときに進んできたからだ・・・

・・・当時は岸田首相と同じ宏池会の宮沢内閣。首相も今回、行革に火をつけることで国と地方の役割の再定義を政治課題に載せようとしているように映る。かつてのような熱気はなく、成否は不透明だが、再定義を必要とする素地は地方に広がりつつある。
首相のめざす再定義は、デジタル化で国の役割が増え、国への再集権の色合いを帯びるものだ。分権とは逆だが、地方の現場にはそれを求める声がある。人口減少で小規模自治体は人材が制約され、分権で広がった役割を担うことが難しくなっているためだ・・・

・・・人材不足は国と自治体の役割を見直す契機になるが、一方でコロナ下で緩んだ財政は改革への意識を鈍らせる。人は足りないがお金はあるという状態が事業のチェックを甘くしている面もあろう。
自民党は地方財源を減らした三位一体改革が2009年に政権を失う遠因になったとして、政権復帰後は地方財源を十分に確保してきた。長く続く低金利のなせる技だが、これは結果として地域の産業構造を温存し、賃上げで地方経済を底上げする努力から目をそらさせてきた。
だが動かない金利と賃金のおかげで地方が現状維持に甘んじていられた時代は終わりに近づきつつある。日銀はバブル崩壊後以来続けてきた低金利の見直しを視野に入れ、今春の賃上げは31年ぶりの上昇率となった。
金利と賃金が動き出せば、地方は変化を迫られる。首相が国と地方の再定義を提唱した背景にこうした思惑があるなら地方も覚悟が必要だ・・・

人事院初任研修3

人事院初任研修」「人事院初任研修2」の研修生の反応が送られてきました。いくつかを、一部改変して紹介します。

【基調講義について】
・前例のない事態に対してどう組織を作り、次々に噴出する問題に対して動いていったのか、その本人から当時の思いを聞くことができ、非常に有意義だった。自分の仕事の大半は前例があるものばかりだが、自分は何ができるのか、どのような付加価値を付けられるのかを常に考え行動できるようにしたい。

【全体討議】
・自らの班内で出なかった考えや視点について他の班の発表を通じて学ぶことができた。 また、考えていたことに対するコメントを岡本講師からいただき、自分たちが考えた対応と現実とのすり合わせのようなことができた。 深掘りよりも広く論点整理が重要であることを学ぶことができた。
・与えられた課題がどれも、議論次第で自由に展開できる余地が残されているものだったため、各班が発表する内容も多種多様なものとなりました。他省庁同期との議論から得られた様々な知見は大変勉強になりました。また、岡本講師が、行政の永遠の課題として、「公共の福祉」と「国民感情」のバランスがあり、これに逃げずに対応する必要性をお話しくださった点は、大変印象深かったです。