元気ながん患者

3月30日の読売新聞に、ラジオ番組の全面広告が載っていました。小野薬品工業が提供している「Changeの瞬間(とき)~がんサバイバーストーリー」です。
がんと診断された患者をを応援する番組で、各方面で活躍しているがん患者にどんな気持ちでがんと向き合い、どんなきっかけで前向きになれたのかなどを聞いているのだそうです。
紙面には、たくさんの有名人の名前と、どこの臓器のがんかが載っていました。「え~、この人もがん患者だったんだ」とびっくりしました。

かつてがんは、死の病でしたが、その後の医学の発達で、多くの人が生きることができるようになりました。でも、まだ世間では知られていません。このような広告は、国民の意識改革に効果があるでしょうね。

人権教育

憲法に基本的人権の尊重が書かれていますが、一般論ではなく具体において身につけることが必要です。そして、新しい差別事象が生まれています。かつては意識されなかった言動が、差別になると認識されるようになったのです。国民一般に人権教育は必要なのですが、公務員にはより重要です。仕事の中で、それに直面する場合があります。

私が公務員になったころは、部落差別が差別の第一でした。学校でも習いましたし、職場でも教育を受けました。その後、新しい人権侵害事象が増えています。法務省作成の「人権教育」という小冊子をご覧ください。人権侵害として、次のような項目が並んでいます。
あなたや部下職員は、すべてを知っていますか。「かつて研修を受けた」では、知識は古くなっていますよ。

なお分類は、私が便宜的に作成したものです。
(属性)
女性(性犯罪・性暴力・DV・ハラスメント)、子ども(いじめ・体罰・児童虐待・性被害)、高齢者、障害のある人、性的マイノリティ
(出身)
部落差別(同和問題)、アイヌの人々、外国人
(経験)
感染症、ハンセン病患者・元患者やその家族、刑を終えて出所した人やその家族、犯罪被害者やその家族、北朝鮮当局によって拉致された被害者等、ホームレス、震災等の災害に起因する人権問題
(行為)
インターネット上の人権侵害、人身取引(性的サービスや労働の強要等)

昭和天皇「反省のお言葉」

4月2日の読売新聞、古川隆久・日大教授の「皇位継承議論 原点は民意 昭和天皇「拝謁記」」から。

・・・拝謁記は49〜53年に計622回に及んだ天皇との拝謁(面会)の記録です。違う風景を見てきた2人が本音をぶつけ合い、象徴のあり方を試行錯誤した日々が刻まれています。5年前の発見により、「戦前と戦後の天皇制の落差はどうやって埋められたのか」という長年の謎が解明されました。大転換期を迎えた天皇制の中心にいた2人の肉声は、現代の議論を見つめ直すヒントを与えています。
昭和天皇と田島の試行錯誤のクライマックスは、日本の独立回復を祝う52年5月の記念式典で、天皇が述べたお言葉を作成する過程にあったことがわかりました。

昭和天皇は戦争への悔恨と反省を盛り込んだお言葉を希望しました。田島もそれに賛同します。しかし、お言葉案を吉田茂首相に諮ると、認められませんでした。
天皇がここで謝ってしまうと、退位や国の指導者も責任を取って引退すべきだという議論を招き、戦後復興の妨げになる、という政治的な判断からでした。
吉田の意見を聞いた田島は態度を一変させ、昭和天皇にお言葉の修正を求めます。国権の最高機関・国会で選ばれた首相の判断が最優先という、民主主義の原則を貫いたのです。昭和天皇は不満ながらも修正を受け入れます。政治の決定に従う象徴天皇の地位は、この時、確定したのです・・・

上司はおおらかになる2

上司はおおらかになる」の続きです。

私は若い頃は、部下職員にとても厳しかったようです。本人は、「私は優しい」と思っていました。ある職員が、キョーコさんに「全勝課長は厳しいんです」と直訴するのを見て、現実に気づきました。
心を入れ替えたのは、大臣秘書官になって、大臣の立ち居振る舞いを見てからです。この経緯は、『明るい公務員講座』にも書きました。また、諸先輩たちの立ち居振る舞いも、参考になりました。よいお手本以上に、「反面教師」が役に立ちました。「あのように振る舞ってはいけないんだ」とです。

といって、仕事に手を抜くことは、よくないです。仕事に厳しいことと、部下厳しく当たることは別のことです。それに気がつきました。

県の総務部長になって、なるべくおおらかに振る舞うようにしました。
国に帰り、省庁改革本部に勤務しました。ここは各省から職員が集まり、各省を削って新しい府省をつくるという任務もあり、なかなかの「修羅場」でした。
つとめて、にこにこして部下の話を聞くようにしました。ある省からきていた職員が、私のことを「仏のゼンショウさん」と呼んでくれたのです。これでますます、おおらかに振る舞うようになりました。
東日本大震災の被災者支援本部や復興庁では、厳しく振る舞う暇もありませんでした。こんな経験談もありました。大震災から1年後のことです。「今日は桜が満開、トラブルも満開

もっとも、キョーコさんからは、未だに「××がだめ」と教育的指導を受けています。自分のことは、なかなか客観的には見ることができないものです。助言をくれる上司や部下、連れ合いはありがたい存在です。

(追記)
これを読んだ当時の同僚が、次のような指摘をくれました。
「全勝さんが優しかったのではなく、ほかの人が厳しかったので、相対的に仏に見えたのでしょう」

(追記2)
4月14日の肝冷斎のホームページに、次のような記述がありました。富山時代に、中国旅行で秦始皇帝陵に行き、まだ珍しかった兵馬俑の模型をいくつか買ってきたのです。片膝を地に着けた兵士像か、直立して武器を持っている兵士像だったと思います。職員が武器を手作りして、添えてくれました。瓦のような焼き物ですから、落とせば割れたのでしょう。

・・・筆者も若いころに仕えた上司が職場に持ってきていたそこそこでかい兵馬俑の模型みたいなやつを、誰かが壊してしまった(直接手を下したのは肝冷斎ではなかったと思います。ほんとです)ときに、その上司に
―――形あるものは壊れるものですぞ。
と教えてさしあげたことがあります。
上司は、「仕方がないなあ」とにこにこしておられました。いま思うとホトケさまのような方でございました・・・

デジタル空間は現実社会のあしき模倣

3月29日の朝日新聞オピニオン欄、漫画家・いがらしみきおさんの「「神様のない宗教」から12年」から。

・・・39年前、コンピューターに入れあげた私は、本業である漫画家を休業した揚げ句、夜ごとパソコンの前に座りつづけていた。そして、当時広まりはじめたパソコン通信のために、自前のBBS(電子掲示板)を立ち上げた。それまではひとり夜中にいじりまくるものでしかなかったパソコンが、誰かのパソコンと繋がった時は、意味もなく感動したものだ。
しかし、それからの2年ほどは地獄の日々がつづく。毎日毎日、BBSに書きこまれる誰かの世まい言にレスしまくり、デマと中傷の嵐の中で会員同士のケンカがはじまれば仲裁し、オフラインの希望が出ると仕事場に招いたり、食事したりする。元来、人付き合いなどできもしないくせにそんなことをはじめたので、メンタルや自律神経が狂ってしまったのか、ある日、街を歩いていると、グルグルと風景が回りはじめ、とても立っていられなくなった。近くの電柱につかまりながらタクシーをひろって自宅に帰ったが、寝ている間にもどんどん体温が下がるので、このままだと死ぬんじゃないかと恐れた妻が救急車を呼ぶはめになった。そして、それを機会にBBS運営からも離れてしまう。

文字データだけのパソコン通信から、あらゆるデータを流通させられるようになったインターネットが広まり出したのは、そのすぐ後なので、パソコン通信などいずれ終焉を迎える運命だったのだろう。私は当時の自分のBBSを「駄作」と称し、「ここには誰もいない」と思った。
私は過度な期待を抱いていたのだろう。デジタルになると、なにか新しい世界がはじまるのではと夢見たが、パソコン通信の中で繰り広げられたことは、現実社会のあしき模倣でしかなかったし、インターネットになってからもそれは変わらず、現実社会のコピーをデジタルの中に持ち込んでは、それをワンタッチ、ワンクリックし、大量消費しているようにしか見えなかった。
それ以降の30年間ほどは、デジタルと距離を置くようになったが、その時の失望感と違和感は、私の中で通奏低音のようにつづいている・・・