「男らしさ」が招く生きづらさ

12月30日の日経新聞経済教室「生きづらさを考える」、奥田祥子・近畿大学教授の「「らしさ」の呪縛 解き放て」から。

・・・人生で直面する様々な困難や苦悩が、「生きづらさ」という言葉で語られる機会が増えた。筆者は生きづらさは個人に起因する問題ではなく、社会構造を問うべき課題として捉えている。だが、情報がメディアを介して広まる過程で生きづらさの要因が単純化され、問題の所在が曖昧になるケースが散見される。
例えば、ジェンダーギャップ指数(世界経済フォーラム発表)に関する報道は、女性をひとくくりにして平等の恩恵を享受できていない”被害者″のレッテルを貼り、「生きづらさ」の象徴としての女性像を流布している面が否めない。
一方、経済協力開発機構(OECD)の「幸福度白書」など複数の国際調査で、日本は男性の幸福度が女性よりも低いことが明らかになっているが、詳しく報じられることはない。男性の生きづらさは日本では社会問題とは認識されず、政策議論の俎上に載ることもない・・・

・・・まず、生きづらさの根底にあるのは、男は「出世競争に勝ち、社会的評価を得なければならない」「一家の大黒柱として妻子の経済的・精神的支柱であるべきだ」「弱音を吐いてはいけない」など、旧来の「男らしさ」のジェンダー(性)規範である。
笹川平和財団が2019年に公表した「新しい男性の役割に関する調査報告書」によると、日本の男性の53.7%が「仕事では競争に勝ちたい」、60.8%が「男は妻子を養うべきである」と答えた。ほかにも「他人に弱音を吐くことがある」が「当てはまらない」が60%を占め、固定的な「男らしさ」を志している男性が多いことが浮き彫りとなっている・・・

・・・生きづらさを抱えた中年男性が職場で引き起こす問題のひとつが、部下や同僚へのハラスメント行為だ。多くが無自覚のうちに、パワハラやセクハラに及んでいる。背後には、自身の価値観や行動規範に基づいて物事の是非を決めつけるなどのアンコンシャス・バイアスが根深く潜んでいる。
インタビュー調査では「部下のためを思った助言だった」「過去に自分が上司から受けた指導を受け継いだだけ」などの発言が目立ち、事実認定され、懲戒処分を受けた後でも、ハラスメント行為を自認できない男性も多かった。
画一的で排他主義的な組織で成り立っていた「男社会」を観念的に支えたのが、「男らしさ」規範だ。多様性受容やジェンダー平等を世界が希求する今、男社会は機能し得なくなっている。にもかかわらず、古い価値観に固執する土壌にハラスメントは起きやすい。

中年男性の生きづらさのもうひとつの負の影響が、プレゼンティーイズム問題である。プレゼンティーイズムとは、心身の不調を抱えて働き、職務遂行能力が低下している状態を指す。生産性低下を招く、企業活動において深刻な問題だ。
職場のパワーゲームに敗れるなど、自身が目指す「男」像を実現できないつらさからストレス過多となり、心身に不調をきたす。それでも弱音を吐かず、働き続けなければならないという心理的負荷を伴った労働により、職務遂行能力が低下するという悪循環に陥っている。武藤孝司・独協医科大学名誉教授は20年に発表した論文で、疾患の種類にかかわらず欠勤よりもプレゼンティーイズムのほうが生産性損失が大きい、という米国の研究結果を紹介している・・・

参考「男性的働き方が障壁」(1月7日)

出光美術館、若冲と江戸絵画展

キョーコさんのお供をして、出光美術館の「若冲と江戸絵画展」を見てきました。2019年に、若冲を発見して集めたプライスさんの所蔵品を、出光美術館が購入しました。日本に里帰りしたのです。
あの有名な、モザイク画のようにマス目を区切って書いた白い象の絵(鳥獣花木図屏風)も展示されています。
おすすめです。

日時指定の予約制で、ゆったりとしてみることができました。もっとも、人気なので予約を取るのが難しいようです。
2月21日からは、第2期の展示が始まります。

豊かでない日本を生きる知恵

12月21日の朝日新聞、小説家・青山文平の「豊かでない日本を生きる智慧 1995年のニューヨークと2022年の東京」から。

・・・私が初めてニューヨークの地に立ったのは1995年の冬でした。いまとなっては信じがたいのですが、当時のアメリカ経済は最悪で、一人当たりGDPは日本の65%。1ドルはなんと80円を割る超円高。街は荒れ、私もティファニーの真ん前で、悪名高いボトルマンに剃刀をちらつかされてゆすられました。セントラルパークは観光客が足を踏み入れる場所ではなかったし、一丁目と八丁目は絶対に行ってはダメという意味で、“いちかばちか”などと言われた。

それから、27年。日米の経済力は完全に逆転し、最新のレートで計れば一人当たりGDPはアメリカのわずか半分。為替は一時は1ドル150円を超え、いまも予断を許さぬ状況がつづいています。こうした数字だけを見れば、2022年の東京が1995年のニューヨークになったっておかしくはありません。
でも、銀座和光の前で恐喝に遭うことはまずないだろうし、日比谷公園でくつろぐことだってできる。相変わらず、東京に足を踏み入れてはいけない街区などありません。円安による物価高とはいえ、まだ治安の悪化を招くほどには追い詰められていないからとも言えるのでしょうが、江戸時代の中後期を舞台にした小説を書いている私は、そこに日本人の文化が現われているような気もしています・・・

・・・中期よりあとの江戸は、地方から出てきた流動民が人口の多くを占める百万都市でした。自給自足ならば食うことだけはできたであろう百姓が、カネで暮らす世の中になって借財がかさみ、田畑を離れざるをえなくなっていったのです。当然、江戸での暮らしも楽であろうはずがなく、張り巡らされた運河に、水死体を目にするのは珍しくなかったようです。食うや食わずで、明日は大川に身を投げているかもしれない連中が、土間を入れても四畳の裏店に身を寄せ合って、今日はへらへらと笑っている。そんな、いつ弾けても不思議はない社会だったのです。
けれど、江戸二百六十余年の時の重なりのなかで、実際に打ちこわしが起きたのは、幕末の混乱期と享保や天明の大飢饉のときくらいしかありません。それも極めて秩序立って行われて、抑制が働いていたようです。これは江戸だけのことではなく、中期以降は各地で百姓一揆が多発するのですが、一揆勢が手にする得物は鍬(くわ)や鉈(なた)などの農具で、刀剣のたぐいは持とうとしなかった。あくまで、百姓としてやむなく立ち上がったことを、武器でも示そうとしたのです。

負荷がかかっても我慢がきいて、あるいは、するりと逃す術(すべ)を身につけていて、簡単には弾けない……それは日本人の文化と言ってよいだろうし、そして、その文化は、これからますます大事にしなければならなくなる気がします。2022年は、長い日本経済の停滞が、もはや停滞などではなく常態であることを、いやが上にも突きつけられた年でした。豊かな日本を取り戻すのは至難でしょう。でも、私たちには、豊かではない日本を生きる智慧だってあることは、覚えておきたいと思います・・・

連載「公共を創る」第139回

連載、新年第一回「公共を創る 新たな行政の役割」の第139回「行革を巡る近年の動き」が、発行されました。
前回まで、第3期(1990年代と2000年代)に行われた個別の行政改革を説明しました。今号は、同時期に行われた政治改革などと、その後の取り組み(小さな政府、財政再建、行政の効率化、規制改革)を説明します。

出遅れた難民支援

読売新聞「時代の証言者」12月は、近衛忠煇・日赤名誉会長です。12月23日の「出遅れた難民支援」から。

《75年のベトナム戦争終結後、ベトナム、ラオス、カンボジアで社会主義政権が誕生した。新体制を嫌い、迫害を恐れる人々がインドシナ半島を脱出し、難民になった》
日本が難民の地位を定めた難民条約に加盟したのは81年です。75年に南シナ海で救助されたベトナム人の「ボートピープル」が初上陸した時は、想定外の事態に混乱しました。日赤の対応も出遅れました。

いち早く難民支援を始めたのが、カトリック系団体カリタス・ジャパンです。私は増え続ける難民に対応するには、こうした団体の力を借りるべきだと考え、立正佼成会や天理教、救世軍、YMCAを回り、受け入れ施設の運営に協力してほしいとお願いしました。日赤は寝具や衣服、医薬品などの物資、赤十字病院の医療を施設に提供するという体制を整えました。

《日赤も77年から施設の運営を始めた。ピークの81年には、国内11か所で計1000人以上を収容した。援護事業を終了する95年までに計5000人を超える難民を受け入れた》
日本人は「人道」を口にしつつも、難民を「流れ者」という先入観で捉え、支援に慎重でした。政府も「ベトナム難民」で手いっぱいで、130万人を超えた「インドシナ難民」全体を視野に入れた方策は描けませんでした。

ただ、難民対応が一筋縄ではいかないのも事実です。日赤が運営する受け入れ施設で、収容者同士のけんかや窃盗騒ぎがよく起こった。80年代に入ると、政治的迫害ではなく経済的な理由で、難民を偽装し、日本に入国する事例が急増しました。

マレーシアで日赤医療班の難民支援を視察したことがあります。現地政府はビドン島という絶海の孤島にボートピープルの収容所を設け、安全確保を徹底していました。自国民の利益を守りつつ、政治的な迫害から逃れた人々にいかに救いを差し伸べるのか。その手探りはいまも続いています。