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社会

キャッシュレスの便利さと心配

6月1日の読売新聞解説欄で、スウェーデンのキャッシュレス事情を伝えていました。「キャッシュレス 民間が主導
現金お断りの店や博物館、券売機などが紹介されています。
同じく3日には、各国のキャッシュレス決済比率がグラフになっていました。ドイツが16%、日本が20%、アメリカは46%、スウェーデン52%、中国60%、イギリス69%、韓国は97%です。

確かに、カード払いは便利です。私も、飲食店や本屋ではクレジットカードで、コンビニでの買い物は電子マネー(スイカ)済ませます。電車に乗るのは、スイカで便利になりましたよね。いちいち切符を買わなくてすむし、ほとんどの私鉄でもバスでも使えます。小銭を持ち歩かなくてよい、おつりをもらわなくてもよいので、便利です。現金で払うのは、お医者さんくらいですかね。
海外旅行でも、便利です。ユーロはまだしも、ハンガリーのフォリントや、チェコのコルナに両替して、出国する前に小銭を使い切るのは面倒です。そして、種類が増えると面倒な上に、あちらの貨幣は部厚くて重いです。もっとも、あちらでは無料の公衆トイレは少なく、おばさんが座っているので小銭が必要です。

ということで、私は現金払よりカード払いに賛成なのですが。一つ気になることがあります。子供です。彼らがカードを持って、紙幣や貨幣での買い物をしなくなると、計算が上手にならないのではないかと心配しているのです。
もう一つは、お小遣いや貯金です。もちろん、これらもカードでできないことはありませんが。紙幣や貨幣を見ずに、スマホの上での数字だけで、お金のありがたみが実感できるでしょうか。
電子機器の発達で便利になるのはよいのですが、子供の発達や学習に悪い影響はないでしょうか。いかに機器が発達しても、簡単なお金の計算は、頭でしなければなりません。
もちろん、多額、多数の数字の計算は、電卓やコンピュータに任せると便利です。しかし、日常生活に必要な暗算は、電卓に置き換えるわけにはいかないのです。

クールビス15年

5月31日の朝日新聞オピニオン欄「官製クールビス15年」から。
倉田真由美さん(漫画家)
・・・クールビズは政府が上着なしでいい、ノーネクタイでいいと、かつての常識を破ることを保証しているわけで、強制ではありません。服装は自己表現でもあり、その人がどんな価値観を持っているのかが詰まっていると思います・・・

MBさん(ファッションアドバイザー)
・・・僕は、洋服は他人のために着るものだと思っています。TPO、時と所、場合にふさわしい格好をすること、相手や周りの人たちに対する敬意や気遣いの表明だと考えています。会う相手がしわのないシャツにジャケット姿で来られたら、気を使ってくれているんだなと感じるじゃないですか。
それが、ジャケットやネクタイなしでもいいんですが、ぶかぶかの柄入り半袖シャツやだぼだぼのチノパンだったら、どうでしょう。クールビズ自体が悪いとは思っていませんが、「涼しければいい」ではないだろうと・・・

中野香織さん(服飾史家)
・・・スーツという武器を手放した男性は、おしゃれな人と、ただだらしなくなった人に、残酷に二分されてしまったと思います。一方で、威厳がなくてはいけないという「男らしさ」から解放され、自分なりの美意識を磨く方向に歩き出した男性もいました・・・

過去の記事「クールビズ10年

科学者の社会的責任2

科学者の社会的責任」の続きです。藤垣 裕子 著『科学者の社会的責任 』には、次のような記述もあります。

・・・まだ科学者にとっても解明途中で長期影響が予測できない部分を含んだままで、科学にもとづいた何らかの公共的な意思決定を行わねばならない場合に遭遇する・・・
・・・予防原則とは、「環境や人の健康に重大で不可逆な悪影響が生じる恐れがある場合には、その科学的証拠が不十分であっても対策を延期すべきではない、もしくは対策をとるべきである、とするリスク管理の原則」であり、事前警戒原則とも言われる・・・事例としてイタイイタイ病と薬害エイズ事件が取り上げられています。(P39、不確実性下の責任)

公共的意思決定を行うとき、科学者の助言は、一つに定まるべきか、幅があるのが当然だろうかという問題があります。原発事故が事例として取り上げられています。行動指針となる一つの統一的見解を出すのが科学者の責任なのか、幅のある助言をしてあとは市民に選択してもらうのかです。(P47、ユニークボイス(シングルボイス)をめぐって)

議論が組織や制度の壁で固定され、壁を越えた議論が成り立っていないことも、指摘されています。
・・・ところが日本では、市民運動論は環境社会学で、社会構成主義は主にフェミニズム研究で、科学と民主主義は科学技術社会論(STS)でというように、もともとはつながっている潮流が別々の研究領域に分断されている・・・
・・・これまでの日本の社会的責任論は、組織や制度を固定してそこに責任を配分するため、組織を攻撃することが主となってしまい、組織外の人々は他人事ですまされた。「Aという組織がXをしたから、けしからん」で終わってしまうことが多かった・・・(P70)

かつて、手塚洋輔著『戦後行政の構造とディレンマ-予防接種行政の変遷』(2010年、藤原書店)を紹介したことがあります。
予防接種をした場合に、一定の「副作用」が避けられません。しかし、伝染病が 広がっているのに予防接種を行わないと、さらに伝染病が広がります。他方、副作用があるのに予防接種を強行すると、副作用被害が出ます。あちらを立てればこちらが立たない、ジレンマにあるのです。
戦後の早い時期は、副作用を考えずに、予防接種を強制しました。その後、副作用被害が社会問題になると、救済制度をつくりました。そして、現在では、本人 や保護者の同意を得る、任意の接種に変わっています。手塚さんは、ここに行政の責任範囲の縮小、行政の責任回避を見ます。行政と科学者との関係(責任の所在)も、重要な問題です。

科学者の社会的責任

藤垣 裕子 著『科学者の社会的責任 』(2018年、岩波科学ライブラリー)が、勉強になりました。科学技術と社会との関係について、第一原発事故以来、関心を持っているので。読みました。

リンゴを見て引力を見つけた(?)ニュートンや、顕微鏡で細胞を見つけたロバート・フックの時代は、発見や発明は人類の進歩につながりました。しかし、科学技術の発展とともに、科学者の研究には、社会的責任が伴うようになりました。「どのような研究をしようが、研究者の勝手だ」と言われても、危険な物質や機械を作られては困ります。
では、現代において、科学者にはどのような社会的責任があるか。詳しくは本を読んでいただくとして。参考になった点を、備忘録として載せておきます。

科学者の社会的責任論は、次の3つに分類される。
1 責任ある研究の実施。科学者共同体内部を律する責任であり、不正な研究をしないこと。
2 責任ある生産物。製造物責任です。危険な兵器、生態系を乱す遺伝子組み換え作物などを作らないこと。
3 応答責任。公共からの問に答える応答責任。「牛肉の輸入を再開するに当たってBSEの危険を抑えるにはどのような判断基準が適正ですか」との問に答える責任です。

1に関して、全米科学アカデミーが『科学者を目指す君たちへー科学者の責任ある行動とは』(1988年)が紹介されています。大学院や学部学生に、配布されているとのことです。取り寄せてみましたが、なかなか良くできています。様々な職業でも、同様の冊子を作ると、有用でしょう。
この項続く

中間団体の重要性

5月9日の日経新聞「令和新時代」、猪木武徳・大阪大学名誉教授の「新技術 道徳と調和を」から。

・・・平成が始まった年は東西冷戦が終わった年でもあった。世界の体制変化と日本の経済力の相対的な低下が同時に進んだ。なかでも、中国の台頭は大きなファクターだ・・・

・・・中間組織に弱さ
経済でも、昭和は大企業が安定的に支配していたが、平成には野望を持つ新興企業が参入し市場を揺さぶった。一方で、国と個人の間にある中間組織が弱くなった。労働組合の組織率は低下、経営者団体もかつてのような発言力がない。民主的な精神が徹底したが、補完する装置は弱まった。
民主制を安定的に機能させるには、個人と国家が直接対峙するだけでなく、非営利法人(NPO)も含めた中間的な組織が大切だ。個人は弱いので団結して共同の利益を主張することも必要だ・・・

中間団体は、公共を考える際にも、重要な要素です。