カテゴリー別アーカイブ: 社会

社会

日常生活での時間の意味

夜、布団に入ってしばらく本を読むのが、長年の習慣で、楽しみです。しかし、この仕事に就いてからは、すぐにまぶたが閉じて、1冊の本をなかなか読み終えることができません。
そのような中でも最近読んだ、木村敏『時間と自己』(1982年、中公新書)に、次のような話が載っていて、なるほどと思いました。先生は著名な精神病理学者です。分裂病者やうつ病者にとっての「時間」から、時間の意味を分析した本です。

・・デジタル時計は、一目で時間が読みとれるから、アナログ時計に比べて格段に便利だろうというのが予想だった。ところが、何となく不便なのである。頭の中でしばらくその時間をぼんやり遊ばせておかないことには、時間の実感が生まれてこないのである。この独特の違和感の実質をよく考えてみると、そこから次のようなことがわかってくる。
われわれが日常、時計を用いて時間を読み取る場合、現在の正確な時刻それ自体を知りたいと思っているのではなくて、ある定められた時刻までに、まだどれだけの時間が残されているのか、あるいは逆にある定められた時刻から、もうどれだけの時間が過ぎたのかを知りたいのである。朝の出勤までにあと何分残っているか・・。
デジタル時計だと現在の時刻しか表示されないから、あらかじめ決められている時刻を示す数値のとのあいだで、引き算をしなくてはならない。アナログ時計の場合だと、二本の針によってそのつど作られる扇形の空間的な形状とその変化から、この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」とを、いわば直感的に見て取ることができる。
この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」の時間感覚は、二つの数値のあいだの演算によって与えられる時間の量にはけっして還元しつくされない、もっと生命的で切実な心の動きである。たとえば会社に遅刻しそうだとか・・

私の身の回りの時計は、すべてアナログです。出張してホテルで泊まった時、夜中に目が覚めてのベッドの近くの時計を見ると、デジタルの時は困りますね。あと何時間寝ることができるかを知りたいのに、寝ぼけた頭で引き算をしなければならないのです。
次のようなことも、書いておられます(これも要約してあります)。

・・目覚まし時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、結局は学校や職場などの公共時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている。共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚まし時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう。しかしそのような人でも、旅行に出かけようと思えば時刻表に載っている列車の発車時刻やそれを知らせるベルの音を無視することはできない・・。
われわれの大多数が外出する時に時計を忘れずにもって出かけ、一日に何回となくそれに眼をやるということの意味も、もう一度考え直さなくてはいけなくなる。時計を見て、もうどれだけの時間が過ぎたとか、まだどれだけの時間が時間が残っているとかいうことが切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間であるよりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面化することによってしか、個人の生活をいとなむことができないからなのではあるまいか・・

近隣諸国に学ぶ

1日の読売新聞文化欄に、『東アジア人文書100』(2011年、みすず書房)が取り上げられていました。日本、中国、韓国、台湾、香港の編集者が、それぞれの国や地域の優れた人文書を選び、紹介するガイドブックです。
江戸時代まで日本は、中国や朝鮮から、たくさんの文化を学びました。漢文、漢詩、書道、中国の古典と歴史、特に論語は、日本人の素養でした。明治以来、日本は「脱亜入欧」、西欧にお手本を乗り換えました。そして、近隣諸国の事情には疎くなりました。私たちは、西欧の指導者や学者、芸能人の名前を何人も挙げることはできますが、アジアの近現代の人の名前は一部の人を除いて知りません。
東アジア各国が経済発展を遂げ、日本との経済社会的な格差が縮まりました。ようやく、日本がアジアを「同じ平面で」見るようになった、ということでしょう。韓国ドラマや芸能人の日本での流行がよい例ですが、小説などはまだのようです。
先日紹介した「政権交代の先進国」(2010年12月13日の記事)も、西欧を見なくても、近くに先例があるということでした。昨日、在東京韓国大使館の知り合いの外交官と、お話しする機会がありました。こんなに近いのに、私には知らないことが多いです。社会の仕組みについて、いろいろ教えてもらいました。文化的背景の違う西欧より、ずっと勉強になると思いました。

街の姿、日本らしさとは

22日の日経新聞夕刊に、陣内秀信教授のインタビュー、「都市の華やぎ、本物か。街の姿は人の営み」が載っていました。
・・東京では高層ビルの建設が今も続く。都市の活力は健在なのか。陣内さんは懐疑的である・・
「製造業がダメなら次は金融や不動産業だというやり方では、街は魅力的にはなりません。なんだか外国のブランドばかり目立つようになったという印象です」
「日本は明治維新以降、欧米に学び、追い越すことに傾注してきました。戦後はものすごいパワーで復興し、東京オリンピックや大阪万博で都市を改造し、右肩上がりの成長を成し遂げました。しかし今どうしてよいかわからず、右往左往しているのです」
「40年近く付き合ってきて、イタリアはしたたかだなと思いますね。都市の魅力とは何かという概念がローマの時代からあるんです。絶えず危機意識を持って、都市の在り方を着々と変えてきました。戦後、ミラノやトリノなどの大都市を中心に成長しましたが、1973年の石油ショックが転機でした。中規模の都市が見直されて主役になったのです。優れたファッションやデザインによって高付加価値の製品を生む家族経営が各地域でのしてきて、80年代の成長を支えました」
確かに、街の姿が、その国と地域の「生き様」を表しているのでしょうね。日本は、かつての日本の姿を脱ぎ、欧米化することで発展してきました。そして日本らしさは、どんどん消えつつあります。私は「新地方自治入門」で、絵はがきになる街の風景がないことを指摘しました。京都タワーの上から写真を撮っても、もう京都らしい風景はないのです。日本を紹介する写真は、お寺か神社のような点でしかないのです。
先日、中国の経済発展は素晴らしいが、中国らしさはどこにあるのかと書きました(2010年12月27日の記事)。中国でも同じことを感じました。和魂洋才といった言葉も、聞かれなくなりました。畳の暮らしや和食など、日本らしさが残っている分野もありますが。

2人のゲームと第3の関係者

高橋伸夫東大教授の『虚妄の成果主義-日本型年功制復活のススメ』(2004年、日経BP社。2010年、ちくま文庫)を読んでいて、長年の悩みが解決しました。
ゲーム理論に、「囚人のジレンマゲーム」があります。経済学では有名なので、ご存じの方も多いでしょう。簡単に言うと、捕まった2人組に、検事が持ちかけます。「2人とも自白したら、重い罪。2人とも自白しなかったら、軽い罪。1人だけ自白したらその容疑者は無罪、自白しない容疑者はもっと重い罪」とです。すると、2人とも相手を裏切って自白してしまい、共倒れになります。ただし、反復を続けると、容疑者は協調することが多いこともわかっています。
私は、学生の時にこれを勉強した時から、「それはその通りだけど、何か釈然としない」という気持ちを、持ち続けてきました。高橋先生の本に、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの指摘(1944年)が、紹介されていました。すなわち、2人ゲームには、第3のプレーヤーがゲームの構造に現れていないことがあるのです(私の引用は簡略化しているので、正確には本文をお読み下さい)。そうです、このゲームは容疑者2人で成り立っているのではなく、検事が重要な参加者なのです。

少し飛躍しますが、労使の対立も、次のようになります。例えば賃上げをめぐって、使用者と労働者が対立します。一方が勝てば、相手方は負けです。しかしそうでしょうか。賃上げの場合、その原資(財源)が必要です。民間企業なら、稼ぎから出せばよいのでしょう。それだけの利益が上がらなければ、倒産です。一方、公務員の場合は、給与を上げれば、その財源は、住民・国民の負担にはね返ります。必要以上の賃上げをした場合、その「負け」を背負わされるのは、納税者です。また長らく、文部省と日教組が、対立してきました。しかし、この場合も教育という観点から考えると、最も重要な関係者は、生徒と保護者でしょう。

高橋先生の本には、1985年に旧電電公社がNTTに民営化された場合のケースが、紹介されています。規制が緩和され新規参入が可能になった時に、電電公社の幹部が、新規参入を勧めて回ったという話です。なぜ、独占企業が、ライバルを育成しようとしたか。それは、経営側と組合側が2人ゲーム状態に陥っていたことを解決しようとしたからだ、と解説されています。

嘘をつく意識はないが記憶を美化する

26日朝日新聞夕刊「追憶の風景」保坂正康さんの言葉から。
・・私はこれまで昭和史を調べる中で、のべ4千人の方に話をうかがってきました。それで気づいたことがあるんです。1割の人は本当のことをいう。1割の人は最初から嘘をいう、8割の人は記憶を美化し、操作する。この8割というのは実は我々なんです。悪人じゃないけど、うそをついている・・