カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

「哲学はこんなふうに」

アンドレ・コント=スポンヴィル著『哲学はこんなふうに』(2022年、河出文庫)を読みました。
哲学とは何か。若いときから関心はあったのですが、簡単に書いたものはありません。本屋に並んでいるのは、西欧哲学史や、哲学者・思想家の歴史です(その点では、政治思想、経済学、社会学も西欧の学者の歴史を並べて紹介するだけで、学問として成り立っていました)。

それに対し、この本は、次のような12の項目について解説したものです。
道徳、政治、愛、死、認識、自由、神、無神論、芸術、時間、人間、叡智。

なるほど、西洋の哲学は、このような項目を論じるのですね。神と無神論が入っているのは、キリスト教の影響でしょう。
私は、哲学は人生の意味、よく生きるとは何かを考えることだと思っています。その点からは、これらの項目は納得するとともに、やや物足りない点もあります。

哲学は「高尚なもの」とか「近づきにくいもの」という印象があるものの、よくわかりません。学者には、簡単なことを難しく書く人たちもいます。難しいことを簡単に説明することが重要なのに。自分の言葉にするのが、難しいのでしょうね。
でも、学問も一つの商売と考えれば、その考え・著作が売れないと成り立ちません。消費者(読者)を獲得するためには、わかりやすくする必要があると思うのですが。象牙の塔にこもって内輪だけで理解し、世間には「難しいぞ」という印象を売ったのでしょうか。
この本は文章もわかりやすく、翻訳も読みやすく、理解しやすかったです。

ライト・ミルズ著『社会学的想像力』

ライト・ミルズ著『社会学的想像力』(2017年、ちくま学芸文庫)を読み終えました。
ほかの本にも引用されていて気になっていたのですが、なかなかその気にならず。『21世紀を生きるための社会学の教科書』で、読まなくてはならないと考え、文庫本で新訳が出て読みやすくなったので挑戦しました。判型は読みやすくなったのですが、内容は決してわかりやすいものではありません。かなりの日数がかかりました。布団で読む本ではないですね(反省)。

ウィキペディアのミルズの項では、「「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしにはそのどちらの一つも理解することができない」と考える想像力である」と書かれています。
私なりに理解すると次のようになります。
ミルズは、社会学を学ぶ意味とは人が日々遭遇する困難を根本的に解決するにはどうすればよいかを考えることである、と言います。個人が困っている問題を本人の責任とせず社会の問題であると位置づけることが、この学問の意義だと言うのです。そのためには個人の日常の問題を社会と関連づけて捉える知性が必要であり、その知性を「社会学的想像力」と呼びます。
我が意を得たりです。「今頃、遅い」と言われそうですが。早速、連載「公共を創る」に利用しました。
このホームページを検索すると、「社会を観察するのではなく、社会に参加し貢献する学問」から「社会学的想像力と政治的想像力」まで、長く同じ主題を考えていたのでした。

要旨は明快なのですが、当時の社会学への批判の書でもあります。原著が出版された当時(1959年)の社会学界、特にアメリカの社会学界を知らないと、理解しにくいのです。パーソンズの「構造主義」や、調査統計に特化する社会学を批判します。社会学の有り様を理解するにはよい本です。もっとも、出版以来、半世紀以上が経っています。
ミルズの書は、学生時代に政治学で『パワー・エリート』を読みました。あの人だったのですね。

『グランゼコールの教科書』

グランゼコールの教科書 フランスのエリートが習得する最高峰の知性』(2022年、プレジデント社)を、図書館で借りて見てみました。
グランゼコール(Grandes Écoles)は、フランスの高等教育機関群です。大学より高い地位にあるようです。フランスのエリートは、ほぼここを出ています。

本書は、そこで学ぶ人のための「教養概論」ともいうべき教科書・参考書のようです。フランスのエリートが身につけなければならない、身につけている教養とはどのようなものか。800ページを超える分厚い本です。とても読み通すことはできそうもないので、どのようなことが書いてあるかを見てみました。
まず、次のような、9つの時代区分になっています。ギリシャ、ローマと一神教、中世、ルネサンスおよび近世、17世紀古典主義時代、18世紀啓蒙の時代、19世紀、20世紀、21世紀。
西欧の歴史は、このような時代区分になるのでしょう。

そして、それぞれの時代の中が、次のような6つのテーマに分けて記述されています。歴史、宗教、哲学、文学、芸術、科学。
なるほど、「宗教、哲学、文学、芸術、科学」のように分けて、文化・教養を見るのですね。
と、今回はそこまでで納得し、本文を読むことは、将来の時間つぶしにとっておきましょう。

意味の世界に生きる人間

ピーター・バーガー著『聖なる天蓋 神聖世界の社会学』(2018年、ちくま学芸文庫)を読んでいます。
宗教の持つ機能を知りたくて、これまでにいくつか本を読んだのですが、私の関心に合う本は見当たりません。この本が、私の疑問に答えてくれそうなのです。
文章は平易なのですが、内容が高度に抽象的でもあり、なかなか先に進みません。このような深い意味のある本を、布団の中で読むことが間違いです。昨日読んだところは何が書いてあったかと振り返る必要があり、少しずつしか進まないのです。
とはいえ、一気に読み通せる内容ではありません。で、途中で考えたことを、書き留めておきます。

宗教は世界の成り立ち(ときには宇宙や死後の世界も含めて)を説明してくれます。それが、社会に秩序をもたらし、個人に居場所と生きる意味を与えてくれます。

p105 「神義論が第一義的にもたらすものは、幸福ではなく、意味なのである」
キリスト教にしろユダヤ教にしろ仏教にしろ、生きていく際の苦しみ(生命、病気、貧困、差別、家族との軋轢)などを緩めてはくれません(貧しい信者に「もっと喜捨をせよ」とか、聖戦と称して命を差し出すことを命じることすらあります)。しかし信者は、教えを信じることで生きる意味(場合によっては、生命を差し出す意味)や安心を得るのです。
宗教が与えてくれる意味の世界は、利害得失の物差しとは違う基準ですから、異教徒には理解できないものです。

ではなぜ、生きる意味を求めるのか。
一つには、「なぜ私はこの世に生まれてきたのか」「私の生きる意味は何か」「なぜ人は死んでいくのか」「死んだら私はどうなるのか」という「意味の世界」に人は生きているからです。自然科学は、どのようにして人が生まれ死ぬかを説明してくれますが、その意味は説明してくれません。
もう一つは、苦しいことや困った事態に出会ったときに、人はその緩和を求めます。しかしそれが実現しない場合に、その説明やよりどころを求めます。それぞれに理由はあるのですが、納得できないこともあります。その場合に、それを宗教は説明してくれるのです。それは時に本人の力不足であったり他人の方が条件がよかったりするのですが、それを認めたくない場合は、前世からの報いであったり、世界の秩序が理由となります。
苦しみや困った場合でなくとも、御利益を期待して神に祈る場合もありますが。

生活実態の変化と意識の変化のズレ

11月21日の日経新聞「私見卓見」、石寺修三・博報堂生活総合研究所所長の「「見識」と思い込む前に考えよう」から。

「生活者の価値観や意識は今どこに向かいつつあるのか」。この問いに、人は誰しも自分なりの感覚値や仮説を持っていることだろう。そして、それは流行や世論調査などを通して確信となり、個人の見識になっていく。しかし、実は変化の多くは目に見えないから、潮目が変わったことに気づかないことも多い。私が所属する博報堂生活総合研究所が1992年から続けている「生活定点」調査をみると、そのことがよく分かる。

例えば、次に示す3つのデータから考えてみよう。
昨今は学び直しがブームだ。しかし、98年に53%いた「いくつになっても、学んでいきたいものがある」人は2022年には35%に低下し、生活者の学びへの関心は過去最低の水準にある。
キャンプなどアウトドアブームがメディアをにぎわして久しいが「家の中よりも野外で遊ぶ方が好きだ」という人は、92年の45%をピークに低下し、22年は24%。逆に「休日は家にいる方が好きだ」とするインドア派は33%で、アウトドア派を上回る。
SDGs(持続可能な開発目標)への関心は高まっているようにみえる。だが、22年に「環境を考えた生活をすることは自分にとって快適だと思う」人の比率は49%と過去最低を記録した。「面倒だと思う」(51%)人の比率を下回っている。

いかがだろう。いくつかは読者のイメージと異なる動きだったのではないか。逆に今まで、ふに落ちなかった現象に合点がいった方もおられるかもしれない。もちろん、世の中の空気感を予想通りに反映するデータも多く存在している。大事なのは、どちらの変化の可能性も自覚しておくことだと考える。コロナ禍に限らず「数十年に一度」の出来事が頻発するなか、人々の価値観は思いもよらない方向に変化している可能性があるからだ。自らの「見識」が「思い込み」になっていないかを常に疑う姿勢は持ち続けていたい。