カテゴリー別アーカイブ: ものの見方

西洋社会を学ぶ意味

岩波書店の宣伝誌『図書』6月号に、前田健太郎・東大教授が「西洋社会を学ぶ意味」を書いておられます。ウエッブで読むことができます。一部を抜粋します。

・・・日本の政治学において、西洋由来の理論が持つ存在感は大きい・・・政治学の教科書に掲載されているのも、大部分は欧米の研究者の提唱した学説である。マルクス主義、多元主義、合理的選択理論、ジェンダー論など様々な理論が輸入されては、日本の政治の分析に用いられてきた。
それを、奇妙に感じる人もいるだろう。日本列島から何千キロも離れ、歴史や文化も異なる土地で作られた理論を、なぜ自国の政治に当てはめるのか。それは、世界を西洋とそれ以外に二分し、前者の後者に対する優位を唱える西洋中心主義の発想ではないか、と。こうした批判は、より日本に根ざした政治学を目指す動きへとつながる。
だが、そこには悩ましい問題が待ち受けている。現代の日本において、欧米の政治学の影響を受けていない理論など、ほぼ存在しない・・・

・・・欧米の社会科学は、西洋社会を分析の対象としている。このことは、日本の政治学のあり方を考える上で、無視できない意味を持つ。というのも、その視点を素直に取り入れるのであれば、欧米の政治学の理論を用いて日本の政治を分析する発想にはなるまい。むしろ、まず日本列島を取り巻く東アジアという地域の成り立ちを考え、その中での日本の位置づけを探ることになるだろう。
ところが、ここで重要な問題に気づく。それは、日本の政治学における東アジアへの関心の低さである・・・キリスト教や啓蒙思想は登場しても仏教や儒教は登場せず、近代官僚制は解説されても科挙制度は解説されず、ウェストファリア体制が出てきても冊封体制は出てこないのが一般的である。
これは不思議なことではないだろうか。七世紀に律令制を取り入れて以来、日本列島の支配者たちは、中国大陸や朝鮮半島に興った政治権力との間で様々な関係を取り結び、その下で政治制度を作り上げてきた。政治学の教科書の中で、この基本的な事実に言及がないというのは、あたかも絶対王政や身分制議会に触れることなく欧米諸国における政治制度の成立を説明するようなものだろう。

西洋の学問を学び、自国の分析に取り入れることは、一見すると開明的であり、先進的である。だが、日本には一九世紀後半の「脱亜入欧」の時代以来、自国を西洋の一部に含め、東アジアに背を向けるという、一風変わった自国中心主義があった。欧米の政治学を自国に当てはめつつ、東アジアを視野の外に置くという態度は、それとよく似ている。
かつては、それを方法論的に正当化することも可能であった。日本は、社会経済的な条件や政治制度が周辺諸国とは大きく異なっていたからである。例えば、一九八〇年代までの東アジアでは、複数の政党が自由に競争する政治体制は日本以外に存在せず、産業化の程度にも大きな差があった。そうであれば、欧米諸国の方が日本との共通点が多く、比較しやすいという議論も成り立ち得ただろう。
だが、木宮正史『日韓関係史』(岩波新書、二〇二一年)が韓国の事例に関して指摘するように、「失われた三〇年」とも呼ばれる日本の経済的な停滞が続く中で、従来の前提条件は大きく変容した。台湾と韓国は一九九〇年代にかけて民主化を成し遂げ、今や経済発展の水準も日本と同等である。他方で、独裁体制が続く中国でも急速な経済発展が進み、少子高齢化など日本と似た社会問題を抱えている。その意味で、未だに経済発展の水準の低い北朝鮮は例外としても、東アジア諸国を日本の比較対象から除外することはもはや正当化しにくい。むしろ、今や改めて日本を東アジアの国として位置づける条件が整ったともいえよう・・・

明治以来、日本は「脱亜入欧」を目指してきました。当初はそれでよかったのでしょうが。その結果、大きな間違いを犯しました。一つは、アジアで戦争をしたこと、植民地を持ったことです。もう一つは、アジアに「友達」を作ることができませんでした。アジア各国が貧しく、日本だけが豊かな時代は、それらが「隠れていた」(相手の国は意識していました)のですが、各国が経済力をつけたことで、その問題があからさまになりました。

「哲学はこんなふうに」

アンドレ・コント=スポンヴィル著『哲学はこんなふうに』(2022年、河出文庫)を読みました。
哲学とは何か。若いときから関心はあったのですが、簡単に書いたものはありません。本屋に並んでいるのは、西欧哲学史や、哲学者・思想家の歴史です(その点では、政治思想、経済学、社会学も西欧の学者の歴史を並べて紹介するだけで、学問として成り立っていました)。

それに対し、この本は、次のような12の項目について解説したものです。
道徳、政治、愛、死、認識、自由、神、無神論、芸術、時間、人間、叡智。

なるほど、西洋の哲学は、このような項目を論じるのですね。神と無神論が入っているのは、キリスト教の影響でしょう。
私は、哲学は人生の意味、よく生きるとは何かを考えることだと思っています。その点からは、これらの項目は納得するとともに、やや物足りない点もあります。

哲学は「高尚なもの」とか「近づきにくいもの」という印象があるものの、よくわかりません。学者には、簡単なことを難しく書く人たちもいます。難しいことを簡単に説明することが重要なのに。自分の言葉にするのが、難しいのでしょうね。
でも、学問も一つの商売と考えれば、その考え・著作が売れないと成り立ちません。消費者(読者)を獲得するためには、わかりやすくする必要があると思うのですが。象牙の塔にこもって内輪だけで理解し、世間には「難しいぞ」という印象を売ったのでしょうか。
この本は文章もわかりやすく、翻訳も読みやすく、理解しやすかったです。

ライト・ミルズ著『社会学的想像力』

ライト・ミルズ著『社会学的想像力』(2017年、ちくま学芸文庫)を読み終えました。
ほかの本にも引用されていて気になっていたのですが、なかなかその気にならず。『21世紀を生きるための社会学の教科書』で、読まなくてはならないと考え、文庫本で新訳が出て読みやすくなったので挑戦しました。判型は読みやすくなったのですが、内容は決してわかりやすいものではありません。かなりの日数がかかりました。布団で読む本ではないですね(反省)。

ウィキペディアのミルズの項では、「「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしにはそのどちらの一つも理解することができない」と考える想像力である」と書かれています。
私なりに理解すると次のようになります。
ミルズは、社会学を学ぶ意味とは人が日々遭遇する困難を根本的に解決するにはどうすればよいかを考えることである、と言います。個人が困っている問題を本人の責任とせず社会の問題であると位置づけることが、この学問の意義だと言うのです。そのためには個人の日常の問題を社会と関連づけて捉える知性が必要であり、その知性を「社会学的想像力」と呼びます。
我が意を得たりです。「今頃、遅い」と言われそうですが。早速、連載「公共を創る」に利用しました。
このホームページを検索すると、「社会を観察するのではなく、社会に参加し貢献する学問」から「社会学的想像力と政治的想像力」まで、長く同じ主題を考えていたのでした。

要旨は明快なのですが、当時の社会学への批判の書でもあります。原著が出版された当時(1959年)の社会学界、特にアメリカの社会学界を知らないと、理解しにくいのです。パーソンズの「構造主義」や、調査統計に特化する社会学を批判します。社会学の有り様を理解するにはよい本です。もっとも、出版以来、半世紀以上が経っています。
ミルズの書は、学生時代に政治学で『パワー・エリート』を読みました。あの人だったのですね。

『グランゼコールの教科書』

グランゼコールの教科書 フランスのエリートが習得する最高峰の知性』(2022年、プレジデント社)を、図書館で借りて見てみました。
グランゼコール(Grandes Écoles)は、フランスの高等教育機関群です。大学より高い地位にあるようです。フランスのエリートは、ほぼここを出ています。

本書は、そこで学ぶ人のための「教養概論」ともいうべき教科書・参考書のようです。フランスのエリートが身につけなければならない、身につけている教養とはどのようなものか。800ページを超える分厚い本です。とても読み通すことはできそうもないので、どのようなことが書いてあるかを見てみました。
まず、次のような、9つの時代区分になっています。ギリシャ、ローマと一神教、中世、ルネサンスおよび近世、17世紀古典主義時代、18世紀啓蒙の時代、19世紀、20世紀、21世紀。
西欧の歴史は、このような時代区分になるのでしょう。

そして、それぞれの時代の中が、次のような6つのテーマに分けて記述されています。歴史、宗教、哲学、文学、芸術、科学。
なるほど、「宗教、哲学、文学、芸術、科学」のように分けて、文化・教養を見るのですね。
と、今回はそこまでで納得し、本文を読むことは、将来の時間つぶしにとっておきましょう。

意味の世界に生きる人間

ピーター・バーガー著『聖なる天蓋 神聖世界の社会学』(2018年、ちくま学芸文庫)を読んでいます。
宗教の持つ機能を知りたくて、これまでにいくつか本を読んだのですが、私の関心に合う本は見当たりません。この本が、私の疑問に答えてくれそうなのです。
文章は平易なのですが、内容が高度に抽象的でもあり、なかなか先に進みません。このような深い意味のある本を、布団の中で読むことが間違いです。昨日読んだところは何が書いてあったかと振り返る必要があり、少しずつしか進まないのです。
とはいえ、一気に読み通せる内容ではありません。で、途中で考えたことを、書き留めておきます。

宗教は世界の成り立ち(ときには宇宙や死後の世界も含めて)を説明してくれます。それが、社会に秩序をもたらし、個人に居場所と生きる意味を与えてくれます。

p105 「神義論が第一義的にもたらすものは、幸福ではなく、意味なのである」
キリスト教にしろユダヤ教にしろ仏教にしろ、生きていく際の苦しみ(生命、病気、貧困、差別、家族との軋轢)などを緩めてはくれません(貧しい信者に「もっと喜捨をせよ」とか、聖戦と称して命を差し出すことを命じることすらあります)。しかし信者は、教えを信じることで生きる意味(場合によっては、生命を差し出す意味)や安心を得るのです。
宗教が与えてくれる意味の世界は、利害得失の物差しとは違う基準ですから、異教徒には理解できないものです。

ではなぜ、生きる意味を求めるのか。
一つには、「なぜ私はこの世に生まれてきたのか」「私の生きる意味は何か」「なぜ人は死んでいくのか」「死んだら私はどうなるのか」という「意味の世界」に人は生きているからです。自然科学は、どのようにして人が生まれ死ぬかを説明してくれますが、その意味は説明してくれません。
もう一つは、苦しいことや困った事態に出会ったときに、人はその緩和を求めます。しかしそれが実現しない場合に、その説明やよりどころを求めます。それぞれに理由はあるのですが、納得できないこともあります。その場合に、それを宗教は説明してくれるのです。それは時に本人の力不足であったり他人の方が条件がよかったりするのですが、それを認めたくない場合は、前世からの報いであったり、世界の秩序が理由となります。
苦しみや困った場合でなくとも、御利益を期待して神に祈る場合もありますが。