カテゴリーアーカイブ:人生の達人

新年度が始まりました

2026年4月1日   岡本全勝

今日は4月1日。新しい年度が始まりました。新しく社会人になった人や、職場を異動した人も多いでしょう。大きな希望と少しの不安を抱えての出発だと思います。

わからないことが、たくさんあるでしょう。一人で悩んではだめですよ。上司や先輩、同僚に、質問してください。何を聞いたら良いかも、わからない場合もあるでしょう。それを相談できる人を、見つけてください。
明るい公務員講座』が役に立ちます。この本は公務員向けですが、民間企業の社員にも。

新しい職員を迎えた先輩たちにも、お願いです。あなたが新人だった時を思い出してください。不安な気持ちにいる新入生を、温かく指導してやってください。彼ら彼女らを早く戦力にすると、あなたの仕事も楽になります。

他方で、3月で卒業する人や、終わるものもあります。ご苦労さまでした。

日本型ジョブ型雇用

2026年3月26日   岡本全勝

3月6日の日経新聞経済教室は、濱口桂一郎・労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の「導入広がるジョブ型雇用、制度の土台は日本型のまま」でした。

・・・「ジョブ型」というのは奇妙な言葉である。jobという英語が元になっているけれども、ジョブ型に当たる英語(job-type)は存在しない・・・なぜか。雇用にせよ人事・賃金にせよ、世界では職務に基づくのが大前提で、職務に基づかないとは想定しがたいからだ。それゆえジョブ型という用語は、労働に関わるどの言葉に冠しても冗長で無意味となる。
では、なぜ日本ではこの言葉が頻繁に用いられるのか。雇用も人事も賃金も、職務に基づいていないからだ。あるいは少なくとも、職務以外のものに基づいていることが多いからだ。
つまりジョブ型は、日本でそう思われているように特殊なものとして名指しされるべき概念ではない。むしろ逆で、ジョブ型ではない日本のあり方こそ、世界では特殊なものと名指しされるべき概念なのである。
そこで、こうした日本の特殊なあり方を筆者は著書「新しい労働社会」(岩波新書、2009年)で「メンバーシップ型」と名付けた。そして対義語として、世界ではとくに名前もない普通のあり方に対してわざわざ「ジョブ型」という言葉を案出したのである。
ところが、これが日本の文脈に投げ込まれてしまうと、筆者の意図とは全く逆に受け取られることになる・・・

・・・筆者はやむなく21年に「ジョブ型雇用社会とは何か」(岩波新書)を刊行し、正しい理解の普及に努めたが、今日でもなおジョブ型をタイトルに冠する書物の大部分は、新商品としてのジョブ型を売り込むためのコンサルタント本である。
そこで「ジョブ型」とされているものは、パソコンに例えれば基本ソフト(OS)としては従来の日本的なメンバーシップ型の雇用を前提としつつ、OS上で動くアプリケーションソフトたる人事異動や賃金制度において、ジョブ型風味の改革を唱道するものが大部分であるように見える・・・
・・・24年8月には「ジョブ型人事指針」と称する、内閣官房・経済産業省・厚生労働省連名の文書を策定した。ところが、この文書は政府が策定した指針でありながら、政府が企業にこのようにすべきだと指し示す部分はほとんど存在しない。富士通、日立製作所をはじめ20社の人事制度改革の概要をただ束ねただけであり、まえがき的な小文に「日本企業の競争力維持のため、ジョブ型人事の導入を進める」と書かれている。
その20社の実例を見る限り、その主眼は人事異動における社内公募制(ポスティング)と、賃金制度における職務給(職務等級制度)であるらしい。逆に言えば、雇用契約自体は新卒一括採用による職務無限定の正社員モデルでありつつも(つまり雇用のOSはメンバーシップ型のまま)、その上で走らせるアプリはジョブ型風に運用する、ということであろう・・・

会社の中の私、私の中の会社

2026年3月22日   岡本全勝

個人の再登場」の続きになります。
「会社人間」は、個人の生活が会社に取り込まれてしまいます。図にすると、会社という大きな円の中に、小さな円である私が入ります。下の図の左。個人が主役になると、私という大きな円の中に、小さな円である会社が入り、ほかに家族や趣味という小さな円も含まれています。下の図の右。
左の図では私が会社を飛び出すのは困難ですが、右の図なら会社を取り替えることも容易です。

また、組織の中の歯車という表現もされます。それを表したのが、下の図です。

噺家もウケる日とウケない日がある

2026年3月20日   岡本全勝

朝日新聞連載「語る 人生の贈りもの」、3月13日は噺家の桂南光さんの「落語はお客さんと一緒に作るもん」でした。

・・・《入門から56年。同じネタでも、ウケる日もあればウケない日もある》
そら、ウケへんかったら多少は気になります。でも、高座で話しているとき、なんか自分を俯瞰するもう一人の自分がおるんです。「うわ、あれだけ稽古してきたのに、今日のお客さんに全然ウケてないがな」と。
ひねった噺が好きなので、笑う人もいれば、全然笑わない人もいてますからね。落語っていうのは、お客さんと一緒に作るもんですわ。ウケないときは「今日のお客さんとはセンスが合わなんだな。自分のお客さんはどこかにおる」と思うようにしています・・・

私も、講義や講演の際に同じ経験があります。私の場合は笑いを取るのではなく、(少々笑いも取りますが)理解してもらうことです。噺家も同じですが、最初の「つかみ」である程度の反応がわかります。

「ボールにみんなが群がる子どものサッカー」

2026年3月17日   岡本全勝

働き方改革を時間で語るな」の続きになります。安永竜夫・三井物産会長は「働き方改革 時間で語るな」の中で「ボールにみんなが群がる子どものサッカーではダメだ。全体像を把握し、各組織・チームで最適な働き方を考える必要がある」と語っておられます。

思い出しました。高校時代にサッカー部に所属したのですが、いくつか金言を教えてもらいました。
例えば、「後ろの声は神の声」です。ボールを持った選手は、前とボールを見ます。周囲を見ることは難しいのです。その際に、横や後ろの選手が声をかけることは、とても役に立ちます。一番後ろにいるゴールキーパーやバックスが書ける声を「後ろの声」という場合もあるようですが。

この「ボールにみんなが群がる子どものサッカー」は、私の頃は「百姓一揆」と呼びました。みんなが一斉に、同じ所を目指して走って行くのです。
攻撃には、空きスペースを使うことが重要です。左サイドから攻めていて、敵の防御も左に寄っていると、右前に空いたスペースができます。右ウイングの選手は、ボールに近寄ることなく、離れてその空きスペースに動いてボールを待ちます。
野球のテレビ中継とサッカーの中継との違いが、ここにあります。野球の場合はボールを追いかけていたら画面ができます。しかしサッカーの場合は、それでは攻撃の善し悪しがわからないのです。

これらの考え方は、官僚になってからも役に立ちました。本人があることに夢中になって、周囲が見えなくなることがあります。その時に、他者からの助言は役に立ちます。また、みんなが同じ方向を向いているときに、少し離れて見てみる、そして別の方向を考えるのです。すると、違ったことが見えてきます。