カテゴリー別アーカイブ: 災害復興

行政-災害復興

大企業による産業復興支援、結の場

復興庁では、大手企業等が、技術、情報、販路など自らの経営資源を、被災地企業に提供する支援事業の形成の場として、地域復興マッチング『結の場』を実施しています。
平成29年度の開催から生まれた成果が公表されました。「資料

ワークショップを開催し、その後、大手企業等からの支援提案により、被災地域企業が今まで気付かなかった新分野への進出、販路拡大等の新しい取り組みが開始されていますので報告します。

学校の校庭にある仮設住宅解消見込み

9月25日に、復興庁が「岩手県及び宮城県の学校校庭にある仮設住宅の解消見込みについて」を発表しました(すみません、紹介が遅くなって)。「資料

岩手県7市町村35 校、宮城県7市町32 校、合計67校の校庭に、仮設住宅が建設されました。解消が進み、平成 30 年8月末時点で、岩手県11 校、宮城県3校、合計14校になりました。平成 31 年度末には、全て解消される見込みです。

津波被災地では、海沿いの平地が津波にのまれ、危険なため、仮設住宅を建設できませんでした。かといって、リアス式の海岸です。住宅に適した平地がありませんでした。そこで、高台にある学校の運動場や公園を使ったのです。当然のことながら、生徒は運動ができなくなりました。当初は、体育館や教室も避難所に使われ、授業ができませんでした。
運動場については、近くの学校の運動場があればそれを使ってもらい、また畑に土を入れて仮設の運動場をつくりました。
仮設住宅を閉鎖する際には、学校の運動場に立てたものを優先して解消しました。それでも、まだ14校も残っています。
他の県では校庭に仮設住宅を造らなかったので、この2県ですべてです。

第197国会総理演説、復興関係

今日10月24日に臨時国会が始まりました。総理大臣が所信表明演説をされました。その中から、復興に関する部分を、紹介します。
「二 強靱な故郷づくり」に出てきます。

(震災からの復興)
熊本を訪れる外国人観光客は、昨年、熊本地震発生前の水準を回復しました。来年秋に向けて熊本城天守閣の再建を進め、この流れを加速してまいります。
東北の被災地でも、震災前の二倍近い観光客が海外から訪れるようになりました。本年も全国平均を上回る伸びとなっており、東日本大震災からの復興は、一歩一歩、着実に進んでいます。
原発事故で大きな被害を受けた福島では、避難指示が解除された五つの町や村で、この春、小学校・中学校が再開しました。帰還困難区域でも、間もなく、葛尾村で除染が始まり、全ての復興再生拠点の整備がスタートします。南相馬市では、この夏、最先端のロボットテストフィールドが動き始めました。
東北の復興なくして、日本の再生なし。この決意の下に、「創造と可能性の地」としての東北を創り上げてまいります。

宮城県被災地視察3

宮城県被災地視察で考えたことの続きです。暮らしのためには、働く場と商業サービスとともに、人とのつながりが必要です。
これが、一番難しいです。住民の人とのつながりは、長年の暮らしでできたものです。近所づきあい、幼なじみ、お店や病院でのつきあい、ママ友たちなど。
町が流され、新しい町を作ったことで、つきあいを一から作らなければなりません。高齢者、働いていない人にとって、それは難しいことです。また、戸建てに比べ、集合住宅の公営住宅は、顔を合わす機会が減ります。
復興住宅での住民の体調悪化を、10月18日の朝日新聞「復興住宅 体調悪化の傾向」を伝えていました。

南三陸町高齢者生活支援施設「結の里」も、見せてもらいました。高齢者の孤立を防ぐため、地域での支えあいの拠点です。このような施設は、建物ができただけではダメです。活動が継続することが必要です。それには、お金より人が重要です。活動に期待します。

なお、前回紹介した八葉水産は、復興庁が出している「産業復興事例集」p28にも登場しています。そのご苦労がわかります。お読みください。

ところで、三陸自動車道が順次延伸され、便利になりました。ところが、岩手県視察の際に「浜辺の町が見えなくなった」と書いたのと同じことが、宮城県でも起きています。
南三陸町に行く際に、三陸道を使うと、山の方から町に近づくのです。「え、南三陸町って、山の町だったっけ」と思ってしまいます。

被災地支援の副作用

10月19日の朝日新聞「てんでんこ」は、「商店街、支援物資」でした。
・・・東日本大震災から数日で営業を再開した岩手県宮古市の末広町商店街。だが、すぐに予期せぬ事態に直面した。
大量の支援物資が届き、モノが売れなくなったのだ。避難所では、食料ばかりか、衣服、靴、時計まで配られる光景に、商店主はがくぜんとした。
最大時1万2千人の避難者のため、当時、同市が県に求めた「救援物資の要望状況」リストが残っている。毛布、ろうそく、ストーブから、大人用おむつ、車いす、杖、耳栓、カレンダー、仮設トイレ、蚊取り線香まで約150品目にのぼる。
日本赤十字社は仮設住宅に、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電子レンジ、電気ポット、炊飯器の家電6点セットを配った。
一般市民からの物資も届いた。その多くは市外で購入され、直送されたものだった・・・
・・・それは被災者を助け、励ました。でも被災者でもある末広町商店街はその分、販売機会を失った・・・

そうなのです。現地からの要望に応えて、政府も企業も国民も、被災地に物資を送りました。それが一部では、再開した地元商店の商機を奪っていたのです。子供たちに送られた鉛筆やノートは、ある地域では3年分にも上り、文房具店の商売が成り立ちませんでした。記念の日に届くたくさんの花で、花屋さんの商売があがったりになりました。善意が、商店の再開の足を引っ張ったのです。
すべてを失った被災者に、早く日用品を送らなければなりません。しかし、商店が再開され始めると、それは逆効果になるのです。難しいところです。