カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

憲法・現実と一致しない理想

5月1日の東京新聞夕刊「憲法とどう向き合うか」、長谷部恭男教授の「現実と一致しない理想、大原則のみ示す条文」から。
・・改正すべきだとよくいわれるのは、憲法9条、とくに「戦力を保持しない」とする2項である。自衛隊があるにもかかわらず、こんな条文を持っているのでは、条文と現実とが乖離していることになる。法を尊重するという精神を保つためにも、9条を改正すべきだというわけである。
・・憲法の条文と現実が乖離しているのは、9条に限ったことだろうか。21条は「一切の表現の自由」を保障するというが、わいせつ文書や名誉毀損、児童ポルノなど、自由に表現できないことは多い。これも「ただし、わいせつ文書や名誉毀損、児童ポルノなどは別である」と修正しなければ、条文と現実が乖離していることになるのであろうか。
普通そう考えられていないのは、こうした条文は何が大事か(表現の自由は大事だ)という原則を示しているにとどまるのだから、杓子定規に理解するのはおかしいからである。表現は一切自由なのだから、どんな表現も規制できないといのは非現実的である。それでは社会生活は成り立たない。
同様に、自営のための実力を備えないで国民の生命・財産を守ろうというのは非現実的なのだから、9条がいっているのも、過剰な軍備は戦争の引き金になりかねないし、コストも高くつくので、なるべく持たない方がよいという大原則を示すにとどまると理解するのが常識的である。非武装でも安全を維持できるというのは真摯な信仰ではあっても、信仰をともにしない人も納得できる理屈ではない。特定の信仰を人に押しつけるのは、控えるべきであろう・・

格差問題と目指す社会

4月28日朝日新聞異見新言、市野川容孝准教授「格差問題、制度的不平等の是正こそ」から。
・・格差是正ということが、日本の政治でも言われるようになった。新自由主義の批判もなされている。しかし、そこでは批判や是正の対象が否定的に発見されているだけで、それらに代えて目指すべき理念を肯定的に表現する言葉が欠けている。出発点は見えていても、目的地にははっきりした名前がないのだ。
その名前の一つとして、私たちは「社会的」という言葉を、改めて吟味しなおすべきではなかろうか。
・・ルソーの言うように、確かに自然は人間を不平等にする。男に生まれる人もいれば、女に生まれる人もいる。障害をもって生まれる人もいれば、そうでない人もいる。これらの不平等や差異はみな、本人の努力の結果そうなったものではなく、だから、その人個人の力ではどうにもできない部分が大きい。そうした差異を超えて、あえて人々を平等にする約束のことを、ルソーは「社会的」な契約と呼んだが、その契約の一項目には、人種差別や障害者差別の撤廃が入るはずだ。しかし、個人の努力ではどうにもならない不平等は、自然だけが生み出すわけではない。親の経済力による子どもが受けられる教育の差、地域の医療サービスの差・・。
ルソーの言った「社会的」な契約は、自然が生み出す不平等のみならず、それと同じように個人の力では何ともしがたい、このような制度的不平等の是正をも求めるものだと私は思う・・

消費者保護

22日の朝日新聞「補助線」は、山田厚史さんの「金融商品取引法。消費者保護、だれの仕事」でした。
・・生命保険が、組織を挙げて「不払い」に取り組んでいた。「消費者も勉強しなけりゃ」といわれるが、強引な勧誘や無知につけ込む商売を監視し罰するルールを作るのが政府の仕事だ。
金融商品取引法が、9月から施行されるが、この新法に保険や預金、融資など金融の中核商品は一部の高リスク商品を除いてほとんど含まれていない・・
80年代、英国で起きたビッグバンは自由化で顧客が食い物にされない厳しいルールを業者に課した。1986年の金融サービス法である・・・遅ればせながら日本でも、2004年、「金融商品全体を包括するルール作り」が金融審議会の方針となり、日本版金融サービス法への期待が膨らんだ。ところが、1年余りの議論で包括ルールの看板は消えた。
「専門委員として加わった保険や銀行界の人らが慎重論を主張し、まとまらなかった」と原早苗委員はいう。商品先物も対象になったが、金属や農産品を所轄する経産省や農水省が抵抗した。業界や役所を交えての調整には、限度がある。政治家が高い視点から判断すべき課題だが、「党の壁も厚かった」と関係者はいう。自民党には業界・役所を代弁する族議員は大勢いるが、消費者を代弁する実力者はいなかった・・・

処方箋好きと政策の合理性

15日の東京新聞「時代を読む」は、佐々木毅教授の「診断なき処方箋の不毛さ」でした。以下、私なりの抜粋・要約です。詳しくは、原文をお読みください。
・・・3月31日に、内閣府が発表した「社会生活に関する世論調査」では、国民生活に密接に関係する分野(教育・医療福祉・地域格差)で、事態が悪くなっていると答えた国民が急増している。同じ日に、東京への転入超過が43年ぶりに9万人に達し、地域間格差がものすごいスピードで進んでいることを報じている。
しかし、こうした調査結果について、政策担当者から、コメントはまったく掲載されていなかった。何も責任を問うというわけではないが、政策担当者が国民のこうした認識に対して、何らかの応答をするのが常識のはずであり、そうしたことがなければ、何のためにこのような調査をするのか分からないではないか・・
日本政府は、大変に「政策好き」「処方箋好き」である・・・しかし、この政府に基本的に欠けているのは、現実を徹底的に認識し、分析する努力とそれへの執念である・・・官僚制は政治的な中立性を標榜し、政策の合理性を担保するために、徹底した現実認識を政治に伝えるのが本来の任務のはずである。ところが、日本の官僚制そのものが、「処方箋好き」の伝統に支配され、政治家と一緒になって処方箋ゲームとに参画してきた・・
十分な診断を伴わない処方箋の連発は、よくて「効果なし」と当事者の自己満足に終わり、悪ければ時間やリソース(資源)の無駄、時には現実を更に悪化させることになる・・

匿名批評と匿名世論

14日の朝日新聞「異見新言」は、佐藤俊樹准教授の「言論の行方、匿名世論が動かす社会」でした。先生の意図とは少し外れますが、私の気になった部分を引用・要約します。
・・・書評を書くことは、大げさに言えば、一対一の真剣勝負。だから実名で書かれたものには実名で評する。こちらが実名ならば、書評にせよ、書評の批評にせよ、名前を匿(かく)して言われたことには応答しない。それが常識だと考えていたのだが、どうもそうではないらしい。
匿名で書くときは、後先を計算せず、気ままにのびのび書ける。だからこそ、そこに書かれるのは好き嫌いでしかない。それで十分な場合も多いが、例えば政策や社会の仕組みや評価の仕事には、自分も他人も等しく関わる。そこで何が良いか悪いかを言うときは、好き嫌いをこえて、自分にも他人にも等しく当てはまる客観的な根拠が必要である。自分を安全圏に置く匿名では、どうしてもそこが甘くなる・・・
言論から政治に目を移せば、わかりやすい。小泉政権以降、日本は「世論調査政治」になりつつある。政策や政治目標をマスコミ経由で打ち上げて、すぐ世論調査で反応を調べる。賛成が多ければOK、反対が多ければ軌道修正。従来、政策は客観的な根拠から、長い目で進めるべきだとされてきた。一方、賛成・反対の理由を掘り下げられない世論調査は、どうしてもその時々の好き嫌いになる。その二つが組み合わさっているのが今の政治だが、これ、言論での実名の書き手とネット世論と、まったく同じ構図である。ネット世論を気にする言論は、気持ち悪い。でも世論調査政治をポピュリズムだと切り捨てるのも、変な感じがする・・・