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著作

コメントライナー寄稿第3回

時事通信社「コメントライナー」への寄稿、第3回「コロナ禍をコロナ成果に」が配信されました。今回は、コロナ禍によって私たちはどのようなことを学んだか、何を教訓にすべきかについて書きました。

人や組織は、困難を乗り越えることで強くなっていきます。自然災害については、阪神・淡路大震災と東日本大震災でたくさんのことを学び、対応力を強化してきました。
今回のコロナ禍にあっても、うまく対応できたこと、まずかったこと、隠れていた問題が見えたことなどがありました。
在宅勤務やオンライン会議が一気に普及したことは、思わぬ効果です。以前から言われていたのですが、機器が整備され、遠慮なく在宅勤務ができるようになりました。一方で、病床があるのに患者が受け入れられないという欠陥も分かりました。

このような経験と問題点については、各分野で検証が始まっています。今回、私が指摘したのは、全体像、司令塔の検証です。緊急時に動員できる資源(人、物、能力)には限界があります。また、感染予防のための行動制限と社会活動の継続は、相矛盾しています。両方同時には成り立たず、またどちらか一方を取るわけにはいきません。「ちゅうちょなくすべての対策を直ちに打つようにすべての担当者に指示」してはいけないのです。東日本大震災での私の経験を踏まえて、提言しました。
次の災害に備えて、コロナ禍を「コロナ成果」にしなければなりません。

連載「公共を創る」114回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第114回「「生きていく力」を身に付けるには」が、発行されました。前回から、政府による個人の生活への介入について説明しています。

前回に引き続き、子どもを一人前の社会人に育てることを議論しす。現代では、これは難しい課題になりました。身につけなければならない知識が増えたのです。知育とともに道徳が重要になりました。困ったときに乗り越える力も必要です。「政府や社会は個人の内面には立ち入らない」とは言っておられません。

私たちはしばしば、怒りが暴走するときがあります。それをどのように扱うか。「心の取扱説明書」についても、説明しておきました。あなたの職場にも、「瞬間湯沸かし器」と呼ばれる人や激高して部下を怒鳴る上司がいますか。ひょっとして、あなたがそうですか。

連載「公共を創る」113回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第113回「生活への介入」が、発行されました。前回まで、政府の社会(コミュニティ)への介入について説明しました。今回から、個人の生活への介入について説明します。

社会は個人の集まりですから、政府による個人への介入は、社会への介入と重複することが多いです。ただし異なることは、社会はみんなに開かれた空間ですが、個人には秘密にしてほしいこともあります。プライバシー(私事権)です。
そこには2つのものがあります。一つは、私生活や家庭内のことを知られたくないことです。もう一つは、自分のことは、他人に指図されず自分で決めたいことです。
すると、政府による個人への介入は、次の2点で問題になります。一つは、家庭に入ってよいのか、入る場合はどのような場合かです。もう一つは、「放っておいてくれ」という人に、どこまで関与できるかです。

生活保護など社会保障は、本人が求めるので、関与しても大丈夫でしょう。しかし、家庭内暴力など虐待の場合は、家族は介入を求めておらず、さらに拒否する場合もあります。
自立支援も、難しいです。本人が望んでいない場合に、どこまで支援ができるでしょうか。すべきでしょうか。本人の行動と意思に関与することは、手法も難しいのです。
また、社会的自立への支援と言うことの原点には、子どもを一人前の社会人に育てるということがあります。これについてはほぼすべての人が同意するでしょう。では、現在社会で「一人前にする」とはどのようなことでしょうか。ここに、成熟社会での行政の役割転換が求められています。

連載「公共を創る」112回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第112回「倫理や社会意識、議論する場は?」が、発行されました。
国家(政府)はどこまで、どのようにして社会に介入するかを考えています。その際に、「公共秩序の形成と維持」「国民生活の向上」「この国のかたちの設定」の三つの分野で議論しました。

このような議論を展開しているのは、これまでの政治学、行政学、経済学が、このような議論をしていないからです。これらの学問は現状を説明しますが、これからの未来像を提示してくれません。国民が政府に期待していることは、これだけでしょうか。現在の日本社会の不安である「格差」「孤独と孤立」「沈滞と憂鬱」に、政府も社会も応えていません。
国民に活力と安心を与える、その条件をつくるためには、政府と社会は何をすべきか。それを議論したいのです。

「学問は価値判断を避けるべきだ」という主張(価値中立)は分かりますが、それは分析の際に保つべき態度であって、「これからの社会をどのようにするべきか」は価値判断を避けて通ることはできません。
そして、そのような未来像を、どのような手続きでつくっていくかも問題です。国民生活の不安を扱う役所はありません。また、行政だけに任せるわけには生きません。

連載「公共を創る」執筆状況報告

恒例の、連載「公共を創る 新たな行政の役割」の執筆状況報告です。
「2社会と政府(2)政府の社会への介入」の続きを書き上げ、右筆に手を入れてもらって、編集長に提出しました。

前回まで、社会(コミュニティ)への介入を書いたので、今回は、個人への介入です。公共の秩序を維持するために社会への介入が求められますが、個人にはプライバシー権があるので、介入は抑制的であるべきです。関与するとして、何についてどこまで関与するかが問題になります。また、内心への関与は避けるべきですが、いじめを防ぐためや、本人が一人前のおとなになるために、道徳や倫理を教えなければなりません。しかし、戦前の「修身」の反省に立って、道徳教育は控えられてきました。

また、幸福感、生きがい、生きる意味は、国家が関与するものではなく、個人が考えるものです。しかし、かつてに比べまた諸外国に比べ、日本の若者の幸福感は低いようです。そして誰もが、老いて病気になったり、親しい人が死んだりすると、生きる意味や死の意味を考え悩みます。
科学は、それに答えてくれません。親の教えや宗教が弱くなると、誰もその悩みに答えてくれません。個人の悩みと政府の所管範囲に「空白地域」があるのです。では、どうすればよいのか。難しいです。

これらについても、適当な概説書がないので、執筆に苦労しました。右筆との共同執筆に近いです。
1か月にわたって苦闘し、右筆が真っ赤に手を入れてくれた原稿は、ゲラにすると4回分になりました。4月掲載3回と5月掲載1回です。
締め切りを守って原稿を提出すると、ほっとします。今週は、内閣人局研修の質問への回答も仕上げましたし。夜のお酒がおいしいです。