カテゴリー別アーカイブ: 連載「公共を創る」

連載「公共を創る」113回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第113回「生活への介入」が、発行されました。前回まで、政府の社会(コミュニティ)への介入について説明しました。今回から、個人の生活への介入について説明します。

社会は個人の集まりですから、政府による個人への介入は、社会への介入と重複することが多いです。ただし異なることは、社会はみんなに開かれた空間ですが、個人には秘密にしてほしいこともあります。プライバシー(私事権)です。
そこには2つのものがあります。一つは、私生活や家庭内のことを知られたくないことです。もう一つは、自分のことは、他人に指図されず自分で決めたいことです。
すると、政府による個人への介入は、次の2点で問題になります。一つは、家庭に入ってよいのか、入る場合はどのような場合かです。もう一つは、「放っておいてくれ」という人に、どこまで関与できるかです。

生活保護など社会保障は、本人が求めるので、関与しても大丈夫でしょう。しかし、家庭内暴力など虐待の場合は、家族は介入を求めておらず、さらに拒否する場合もあります。
自立支援も、難しいです。本人が望んでいない場合に、どこまで支援ができるでしょうか。すべきでしょうか。本人の行動と意思に関与することは、手法も難しいのです。
また、社会的自立への支援と言うことの原点には、子どもを一人前の社会人に育てるということがあります。これについてはほぼすべての人が同意するでしょう。では、現在社会で「一人前にする」とはどのようなことでしょうか。ここに、成熟社会での行政の役割転換が求められています。

連載「公共を創る」112回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第112回「倫理や社会意識、議論する場は?」が、発行されました。
国家(政府)はどこまで、どのようにして社会に介入するかを考えています。その際に、「公共秩序の形成と維持」「国民生活の向上」「この国のかたちの設定」の三つの分野で議論しました。

このような議論を展開しているのは、これまでの政治学、行政学、経済学が、このような議論をしていないからです。これらの学問は現状を説明しますが、これからの未来像を提示してくれません。国民が政府に期待していることは、これだけでしょうか。現在の日本社会の不安である「格差」「孤独と孤立」「沈滞と憂鬱」に、政府も社会も応えていません。
国民に活力と安心を与える、その条件をつくるためには、政府と社会は何をすべきか。それを議論したいのです。

「学問は価値判断を避けるべきだ」という主張(価値中立)は分かりますが、それは分析の際に保つべき態度であって、「これからの社会をどのようにするべきか」は価値判断を避けて通ることはできません。
そして、そのような未来像を、どのような手続きでつくっていくかも問題です。国民生活の不安を扱う役所はありません。また、行政だけに任せるわけには生きません。

連載「公共を創る」執筆状況報告

恒例の、連載「公共を創る 新たな行政の役割」の執筆状況報告です。
「2社会と政府(2)政府の社会への介入」の続きを書き上げ、右筆に手を入れてもらって、編集長に提出しました。

前回まで、社会(コミュニティ)への介入を書いたので、今回は、個人への介入です。公共の秩序を維持するために社会への介入が求められますが、個人にはプライバシー権があるので、介入は抑制的であるべきです。関与するとして、何についてどこまで関与するかが問題になります。また、内心への関与は避けるべきですが、いじめを防ぐためや、本人が一人前のおとなになるために、道徳や倫理を教えなければなりません。しかし、戦前の「修身」の反省に立って、道徳教育は控えられてきました。

また、幸福感、生きがい、生きる意味は、国家が関与するものではなく、個人が考えるものです。しかし、かつてに比べまた諸外国に比べ、日本の若者の幸福感は低いようです。そして誰もが、老いて病気になったり、親しい人が死んだりすると、生きる意味や死の意味を考え悩みます。
科学は、それに答えてくれません。親の教えや宗教が弱くなると、誰もその悩みに答えてくれません。個人の悩みと政府の所管範囲に「空白地域」があるのです。では、どうすればよいのか。難しいです。

これらについても、適当な概説書がないので、執筆に苦労しました。右筆との共同執筆に近いです。
1か月にわたって苦闘し、右筆が真っ赤に手を入れてくれた原稿は、ゲラにすると4回分になりました。4月掲載3回と5月掲載1回です。
締め切りを守って原稿を提出すると、ほっとします。今週は、内閣人局研修の質問への回答も仕上げましたし。夜のお酒がおいしいです。

連載「公共を創る」111回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第111回「「世間の目」と学歴・職業観」が、発行されました。前回に引き続き、住みよい社会をつくる際に障害となる社会意識を取り上げました。

個人の自由を制約する集団主義の一つが「世間の目」です。我が国の治安がよいことの背景には、この世間の目もあると考えられます。しかし、過度に個人の行動を規制し、同調を強要する場合は問題です。今回のコロナ拡大でも、「自粛警察」と呼ばれる現象が起きました。自粛を要請した行動制限に従わなかった人を批判するのです。自粛は、あくまでその人の判断で従います。もし強要するなら、法令で行うべきです。

「社会」と「世間」という言葉は、同じように人が集まっている空間を指すのですが、少し意味が違います。社会は構成員とあなたとの間に直接の関係があってもなくても成り立っていますが、世間の方はお互いに意識する相手からなっています。
世間の目が困るのは、その主語が誰だか分からないことです。「・・・といわれている」という文章で、主語がないのです。さんざん説教しておきながら、末尾は「らしいわ。知らんけどな」です。これは関西だけでしょうか。

集団主義の次に取り上げたのは、学歴社会と会社員への安住です。そしてそれは、低い満足度につながっています。経済成長期での人生の目標が、成長を達成した後も続いています。目標の転換ができていないのです。

連載「公共を創る」110回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第110回「社会意識の変化」が、発行されました。
政府による社会への介入のうち「この国のかたち」の設定として、倫理と慣習について議論してきました。今回は、社会意識を取り上げます。ここでは、私たちの行動に表れるものを慣習とし、行動に表れないものを社会意識とします。

戦後70年、特にこの半世紀で、日本社会での寛容度は大きく広がりました。かつてはミニスカートや男性の長髪は批判される身なりでしたが、現在では許容されています。これは、国民が豊かになったこと、女性が社会に進出したこと、宗教や地域での制約が弱くなったことが背景にあります。
社会意識は政府が関与しなくても、つくられ変化するものです。しかし、政府の関与が行われる場合もあります。男女共同参画や働き方改革は、夫は仕事に出かけ妻は家庭を守るという社会意識を変えようとするものです。ボランティア活動は、政府が主導したものではありませんが、阪神・淡路大震災から若者が積極的に参加するようになりました。

課題は、社会をよくする際に問題となる社会意識を、どのように変えていくかです。
その一つが、集団主義と画一的教育です。日本人の特徴と指摘される集団主義、実は受動的なものであって、能動的には参加していません。自分を大切にして世間の目を気にする、個人主義なのです。