カテゴリー別アーカイブ: 歴史

「歴史学の擁護」

リチャード・J.エヴァンズ著『歴史学の擁護』(2022年、ちくま学芸文庫)を、ようやく読み終えました。歴史学とはどのようなものか、どうあるべきかについては、E・Hカーの『歴史とは何か』(岩波新書)が有名です。近藤和彦先生による新しい翻訳も出ました。そこに掲げられた「歴史は現在と過去のあいだの対話である」は有名ですし、有効です。

しかし、原著は1961年に出版されました。歴史学(欧米の)は、当時とその後に大きな転換をしました。政治史から、経済史や民衆史、文化史へと広がったこと。また、事実とは何かという疑問(解釈する人によって異なること。ポストモダニズム)などから、私が学生時代に学んだ歴史学とは全く様変わりしました。歴史家、歴史学者によって、さまざまな考え方があるようです。それをわかりやすく書いた本はないかと、探していたのです。

この本は、まさに20世紀の歴史学の変化を説明してくれます。また、極端な相対主義を論駁します。少々分厚いことが難点なのと、歴史学者同士の「批判」が厳しくて私には付いていけないところがありました。
カーの『歴史とは何か』以降の歴史学を知るためには、良い本だと思います。
歴史の見方の変化」「歴史学は面白い

殿様は目黒でサンマを食べたか

サンマの季節になりました。
古典落語「目黒のサンマ」を、ご存じの方は多いでしょう。8月29日の読売新聞に、「どうして「さんまは目黒に限る」?」が載っていました。

ところで、この落語は江戸時代ではなく、最近になって作られた話ではないかと、教えてもらいました。
先月、気仙沼に行った際のことです。江戸時代の記録には、気仙沼でサンマが獲れたという記録がないそうです。サンマは寒流の魚で、沿岸近くには寄ってこないのです。動力船ができて、沖合まで行けるようになってから、獲れるようになったというのです。すると、江戸近海では獲れなかったのではないか。そして、冷蔵技術がないと、消費地まで運ぶことができません。
江戸時代には、動力船と冷蔵技術がないので、目黒でも江戸市中でも、サンマは食卓に上らなかったのではないでしょうか。

もう一つ興味深い話を。私たちが口にする魚の多くは、一文字で表すことができます。鮭、鰯、鯛、鰊、鱸、鱧、鯉・・・。お寿司屋さんの湯飲み茶碗に、書かれていますよね。
ところが、サンマは一文字がないのです。秋刀魚とあてますが、一文字ではないのです。するとサンマは、食卓には意外と新しい魚なのかもしれません。

ゴルバチョフ氏の理想と限界

9月7日の朝日新聞夕刊、塩川伸明・東京大学名誉教授の「ゴルバチョフ氏、言葉の力を信じ」から。

ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領が世を去った。退陣から30年を経た今では現実政治的には「過去の人」だが、「現在に近い時代の歴史」という観点からは依然として最大級の重要人物である。
歴史上の重要人物の常として、彼の評価には極度に高いものから低いものまで、大きな幅がある。ソ連の民主化と世界の平和に尽力した偉人、何の展望もなしに思いつき的な「改革」を進めて国の混乱を拡大した大馬鹿者、決断力を欠き、右往左往しているうちに政敵に排除されてしまった弱い政治家、その他その他である。

彼がソ連共産党書記長に選出された1985年3月の時点では、その後の大変動を予期していた人は皆無だった。彼自身、当初想定していたのは、体制の抜本的な変革ではなく、限定的な体制内改革だった。そのようにして出発した「ペレストロイカ」は、言論自由化の影響もあって、時間とともにエスカレートし、ある時期以降は事実上全面的な体制転換を視野に入れるようになった。彼の一つの特徴は、言論自由化に伴う改革構想のエスカレートを抑止しようとせず、むしろ自らそれに適応しようと努めた点にあった。
彼がそういう態度をとった一つの要因として、彼が言葉の力を信じるタイプの人間だったということが挙げられる。そのことは内外知識人たちの間に大きな反響を呼び、理想主義的な観点からの期待感を広めた。結果的には、「言葉ばかりが多すぎて、実力の伴わない弱い政治家」という評判をとるに至ったにしても、とにかくそれが彼のスタイルだった。

彼も権謀術数と完全に無縁だったわけではないが、他の政治家たちとの相対比較でいえばマキャベリズムに欠けるところがあり、それがエリツィンに敗北する要因となった。政権末期のゴルバチョフが構想していたのは、もはや集権的でも共産主義でもない、分権的で社会民主主義的なソ連の後継同盟だったが、その構想はソ連解体で潰えた。

般若心経「ぎゃてい、ぎゃてい」

9月9日の肝冷斎に、「般若心経」の最後の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提娑婆賀」(ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか)が載っていました。
仏式の葬式や法事の際にお坊さんが唱えられるのを聞いて、子どもの頃から、不思議な言葉だなあと思っていました。日本語にはない響きです。

で、インターネットで調べてみました。マントラの一つ。
意味は、「行こう、行こう、真実の世界に行こう、みんなで共に行き、仏の悟りを成就しよう」。サンスクリット語を漢訳せず、漢字で音写したもので、漢字に意味はないとのこと。
マントラは、サンスクリットで「文字」「言葉」を意味する。真言と漢訳され、大乗仏教、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉を指すとのことです。

子どもの頃に、家族で奈良薬師寺に初詣に行ったことがあります。高田好胤さんが、堂内で法話をしてくださり、最後に、みんなで合唱させられました。
それが、「行こう行こう幸せの国に行こう。みんなで行こう」というようなものでした(記憶は不確かです)。声が小さいと、再度合唱させられました。みんなの大きな声が、堂内に響き渡りました。そして、お参りした功徳があったような気がしました。これだったんですね、納得しました。

「先の大戦」をどう呼ぶか

8月31日の朝日新聞オピニオン欄は「77年…あの戦争の名は」でした。
「「先の大戦」「第2次世界大戦」「15年戦争」「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」……。戦後77年たっても戦争の名前が定まらない。どう考えたらよいのだろう。」

波多野澄雄・筑波大名誉教授の発言から。

「先の大戦」や「あの戦争」と呼ばれている戦争について日本国民が呼称を共有できているのかといえば、できていないと思います。私は歴史教科書の検定に携わった時期もありますが、標準的には「太平洋戦争」という呼称が使われる一方、「大東亜戦争」「アジア太平洋戦争」も併記される状況でした。

あの戦争はそもそも、単純な一つの戦争ではありません。四つの戦争からなる複合戦争だったのです。
まず1937年に始まった日中戦争があります。41年には日米戦争と、東南アジアを主舞台とする日英戦争が始まりました。終戦前後にはソ連との日ソ戦争も起きています。少なくとも四つの大きな戦場があったうえ、異なる戦場間を移動した兵士は少数に限られていた。それが、戦争イメージが一つに収斂しにくかった一因だと思います。
41年12月に対米英戦を始めた直後、日本政府は戦争の呼称を決めています。それ以前から続いていた対中戦争と新たに始めた戦争、両方を合わせて大東亜戦争と呼ぶと閣議決定したのです。しかし敗戦後の占領下で、大東亜戦争という呼称の公式使用は禁じられました。代わって使われた呼び名が太平洋戦争です。

しかし太平洋戦争は米国視点から見た名です。アジア太平洋戦争という呼称は普及していません。ならば、あえて大東亜戦争という呼称を正面から見据える議論があってもいいのではないかと、私は近年思うようになりました。
「大東亜戦争という呼称を使うことは、あの戦争を解放戦争として正当化することだ」と言われてきましたが、「大東亜戦争の一面は侵略戦争だった」という語り方があってもいいはずだと思うのです。日中戦争はどう見ても日本の侵略戦争でしたから。
大東亜戦争という呼称で考えることのプラスの意味は、「日本が主体的に実現しようとしていたものは何か」「継承すべき遺産は何か」を考える機会になることです。
あの戦争は「望ましい国際秩序をめぐる戦い」でもありました。西洋近代とは異なる原理を持った「大東亜新秩序」を東アジアに作るとの目標が日本には一応あり、米英側には「リベラルな秩序を守る」意味があったのです。
実際の大東亜新秩序には「指導する日本と従属するアジア」という関係を押しつける面もありました。しかし、対等な関係を築こうと試みた一部の指導者もいたのです。
大東亜戦争という呼称を用いながら、侵略などの負の側面も見据えた議論を深めていく。それができる環境が国内外に今あるかと問われれば否定的ですが、結論や評価を急ぐべきではありません。戦争への考えを深める作業は、時間がかかることなのです。