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ヨーロッパで考えたこと

欧州随行記その2の付録です。
【できないと思われていることを行う】
ヨーロッパ旅行中に、高橋進著「歴史としてのドイツ統一-指導者たちはどう動いたか」(岩波書店、1999年)を読みました。買って「積ん読」のままだったのですが、ちょうど良い機会だと思って、鞄に入れていきました。
筆者も書いておられます。「戦後のドイツ外交を研究してきた者として、ドイツの統一は、私が生きている間はありえないというのが、染みついた公理であり・・」。私も、そう思っていました。「『ドイツ統一』と関係者は言ってはいるが、ベルリンの壁が崩れることはない。東西ドイツが統一されることはない」と。
1989年当時は、ニュースを見て、ただ驚いていたただけです。それは、私の中の「公理」が現実を認めたくなかった、ということでもありましょう。
時間が経つと、「政治というものが社会を動かすのだ」、「政治家が歴史を作るのだ」という観点から、気になっていました。人間が歴史を作るという観点からは、キッシンジャー著「外交」(上下、1996年、日本経済新聞社)やニクソン著「わが生涯の戦い」(1991年、文藝春秋)を読んで、すばらしいと感じていました。これは、拙著「明るい係長講座」でも、少し触れました。
確かに、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一には、東ドイツを始めとする東欧諸国の経済停滞がその基盤にあります。しかし、それはすべてが歴史的必然ではなく、人為による部分が大きいのです。
東ドイツ指導者にとっては、選択肢は限られていました。しかし、これまで繰り返されたソ連による軍事弾圧の恐れの中で、これまで繰り返した武力鎮圧を取らず、解放を決断しました。一方、西ドイツ指導者は、難民受け入れ決断から東ドイツ「回収」まで、構想を立て、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連と交渉し、実行していったのです。
あわせてこの機会に、羽場久み子「拡大ヨーロッパの挑戦-アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか」(中公新書、2004年。久み子の「み」は難しい字です。)を、読み終えました。
ヨーロッパ連合(EU)は、2004年5月に新たに10か国を加え、25か国もの連合体になりました。しかも、ポーランドやハンガリーといった東欧諸国が入ったのです。人口は4.5億人、GDPは9兆ドルです。アメリカは2.9億人、10.5兆ドルですから、まさにアメリカと並ぶ「大国」です。ちなみに、日本は1.3億人、4兆ドルです。
さらに、余り知られていませんが、北大西洋条約機構(NATO)も26か国に拡大しています。そこには、ルーマニアやブルガリアも含まれています。かつて、NATOは西側諸国の軍事同盟であり、それに対抗して東側諸国はワルシャワ条約機構を構成していました。それを思うと、考えられない変化です。
(また、新しくEUに加盟する旧社会主義国は、参加のための条件を満たすためにも、自由主義と民主主義の創設と運用に苦労しています。)
ひるがえって、アジアではどうでしょうか。歴史や文化がヨーロッパと違うので、そう簡単には「連合」にはいかないでしょう。しかし、私が比較したいのは、そのような構想を立て、努力しているかです。そして、日本がどのように貢献しているかです。
私は、政治とは「政治家と国民の努力過程」であると考えています。放っておいても平和で豊かという国や地域もあるでしょう。しかしそれは、政治という観点から採点するなら、評価は低いでしょう。
たまたま戦争がなかったからといって、政治家は評価されません。戦争を回避する努力をしたかどうかで、評価されるのです。
ドイツ統一とEU拡大。そこにあるのは、それまではみんなが「できない」と思っていたことを実現することです。そこには、構想し・関係者に手を打ち・世論を誘導し・決断し・実行する、ということが必要です。
それは、人為です。それが、政治でしょう。しかも、「放っておけばそれはそれで済むことをあえて変える」というすごさです。
「自然となる」でなく「人為でそうする」です。これに比べ、日本の政治には「構想・実行」という要素が少ないと思いませんか。日本の政治にそれが欠けているのは、歴史観・文化の違いがあるのかもしれません。そして、島国でかつ単一文化・単一民族に近かったことも、その基底にあるのでしょう。
もっとも、明治国家をつくった人たちは、封建国家を近代国家につくりあげたのですから、日本にもそういう経験はあるのです。
しかし、戦後半世紀、国際政治では、平和憲法とアメリカの傘の下、国際貢献(社会づきあい)をしなかったこと。国内政治では、経済成長の上がりを配分するだけで済んだこと。この二つで、深刻な「政治」をしなくて済んだのです。こうして、ますます日本の政治は、「為す」でなく「なる」になってしまいました(拙著「新地方自治入門」p295以下参照)。

予算査定の成果

国では、8月31日に来年度予算の各省からの要求が出ました。新聞各紙は、「予算編成作業が始まった」と書いています。今日は、国の予算査定について解説します。
「31日に開かれた主計官会議の席上、主計局長が強い口調で、各省庁の予算要求に切り込むよう発破をかけた」(9月1日日本経済新聞など)とあります。
確かに、このような姿勢は重要です。しかし私は、このような訓辞に疑問を持っています。これから12月まで財務省主計局による予算査定が行われますが、そんなに大きく削減できるとは思われません。
主要な経費は、社会保障・教育・公共事業・国債償還・人件費です。社会保障費はその主要な部分について、仕組みが法律で決まっています。仕組みを変えない限り、高齢者や医療費が増えると自動的に増えます。年金・医療・介護・生活保護について、この秋に主計官が査定で変えることができるのは、そんなに大きくありません。
教育も、40人学級の制度を変えない限り、生徒数に応じて教員給与は決まります。これらについては、何年も前から制度改正を仕組まない限り、秋の査定で削減はできないのです。人件費も同じです。国債償還費は既に決まっています。あとは金利が上がれば、利払い費が増えます。公共事業は、査定の余地があります。
また国庫補助金については、先に紹介したように財務省は「なぜ不要か説明してもらう」と自ら言っていますから、これが削減されることは「期待薄」でしょう。
となると、査定できる範囲は非常に限られてきます。事務費といくつかの政策経費(それも小物)しかないのです。
また、予算の基本方針は、経済財政諮問会議で決められます。そして、予算要求は「要求基準」いわゆるシーリングに基づいて行われます。となると、大幅な歳出削減をするためには、次のような手順が必要です。
まず、社会保障などについて、制度改革の方針を決める必要があります。これは数年かかります。次に、公共事業について、諮問会議で削減スケジュールを決める必要があります。それを、要求基準に盛り込む。こういう手順を取らないと、秋の査定ではほとんど削れないのです。
「精神論」だけでは、結果は出ません。上司たるもの、部下に対し、目標値と手法を示す必要があるのです。主計局長は、どの程度の目標を示されたのでしょうか?
毎年、主計局ではこのような号令がかかっていると思います。でも、その結果どの程度削減できたのか、評価をすべきでしょう。財務省詰めの記者さんたちが、ここ数年の実績を調べてくれることを期待します。赤字国債は30兆円にもなっています。12月に、今回の予算査定で何兆円削減できたかを見ることにしましょう(拙稿「予算査定の変容」月刊『地方財務』2003年12月号を参照ください)。

日々の暮らし

今日は、ある雑誌のインタビューを受けました。官僚論についてです。インタビューが終わってからのやり取りです。
記者「岡本さんが言うようなことは、官僚の方はみんなおっしゃいます」
全「じゃあ、なんで私に聞くんですか?」
記者「いや~、実名でしゃべる人はいないんです。しゃべるときは、公務員を辞めたとき。現役だったら、匿名か、出世を諦めた人です。」
全「私はどうなるんですか」
記者「すでに、実名でいろんなことを書いているじゃないですか」
全「とほほ・・」

三位一体改革18

【公共事業などの一般財源化】
今日は、公共事業などの一般財源化について解説しましょう。財務省の反対論は「国はその財源を建設国債で賄っており、税源移譲をする財源はない」です。これには、次のような反論があります。
①国債は財源ではない。
国債はその年度で見れば財源ですが、長期的には財源ではありません。翌年からは、返済が始まります。その財源は国税です。
毎年、6兆円の建設事業をし、その財源は国債だとします。国債は60年返済ですから、毎年1千億円ずつ返済します。その財源は国税です。これが60年続くと、毎年6兆円国債を発行して、6兆円返済し、その財源は国税です。国債は「真の財源」ではなく、国税の前借りです。
財務省の論理で言えば、「これまでに発行した国債の返済は国税で、これから地方が行う建設事業の財源は地方が負担する」になります。地方が行う建設事業をひとまず地方債とするとしても、長期的には地方税が必要なのです。一方、建設事業の補助金がなくなった分だけ、国は国債が減りそのための国税も不要になります。その不要になった分が地方に移譲されるのです。
国債が入っているのでわかりにくいですが(財務省の議論が成り立つかのように見えますが)、長期的に考えれば、また国債は財源でなく税金で返済しなければならないことを考えれば、経常的経費と変わりはありません(時間差があるということです)。
②建設国債が赤字国債に振り代わるだけ
財務省の主張は、「建設事業補助金の財源は建設国債である。補助金を削減し、それに見合う金額の国税を地方に移譲すると、国は国税は減り建設地方債も発行できないので、予算が組めない」ということです。
これも、そんなに説得力のある反論ではありません。
その場合は、不足分は赤字国債が発行されます。即ち、建設事業補助金が1兆円削減され、地方に1兆円国税が移譲されるとします。補助金歳出が1兆円なくなるので、その財源である建設国債も1兆円不要となります。
1兆円建設国債が発行されないとなると、他の条件が変わらなければ、赤字国債が1兆円増えます(今年だと、建設国債が6兆円から5兆円になり、赤字国債が30兆円から31兆円になります)。それは、過去の国債の償還財源分なのです。
国債としては、総額36兆円は変わりません。そして国債には、色は付いていないのです。
おわかりになるでしょう。この問題は、異常に国債に依存しているところに原因があるのです。昭和40年まで、戦後日本は国債を発行していませんでした。その状態で建設事業補助金を廃止し、地方に税源移譲することを考えれば、そんなには難しくありません。
その例が、道路建設補助金です。これは、道路特定財源(ガソリン税など)で賄われています。国債が入っていないので、補助金廃止=税源移譲なのです。(8月29日)
【国政変えるか47士】
29日の毎日新聞には、川勝平太国際日本文化研究センター教授が主張「時代の風」で「国政変えるか47士」を書いておられました。「国政の根幹に触れる案件において、これほど知事の存在感を示した例はなかっただろう。」「これは明治維新の廃藩置県以来、中央政府に従属してきた知事が、国の形を変える主体に上昇転化したという意味で画期的な1ページを開いたと考えられる。」
「小泉首相は知事会への丸投げで、結果的に、地域分権の真の主体がどこにあるかを国民の前に知らしめた。」(8月30日)
【無駄な補助金、廃止はさせない?】
経済財政諮問会議では、三位一体改革の議論が続けられています。その中で財務省が、「三兆円の補助金廃止・税源移譲について、事業を洗い直して無駄なものは税源移譲をしない」旨のことを発言しておられます。
何度も聞くセリフですが、私にはどうしても理解ができません。無駄な事業(補助金)なら、予算査定で削減すればいいのです。その査定権を持っているのは、財務省です。なんで、そんな無駄な補助金をつけているのでしょうか。
他の省の問題点を指摘するならわかりますが、自らやった仕事の問題をこのように指摘するとは。まずは、そんな補助金をつけた部下(主計官)の責任を問うべきでしょう。財務大臣は、誰に向かってこのセリフをおっしゃっているんでしょうかね?理解しがたいですね。
今日(2日)の記者会見でも、香山総務事務次官が同様の疑問を呈しておられます。
また、今日の「官庁速報」(時事通信社)によれば、財務省は「なぜ補助金を廃止するのかを、地方からも説明してもらう必要がある」と言っているそうです。前に一度取り上げたことがあります。このセリフを理解できる人は、少ないでしょう。
予算査定は、「なぜ必要か説明してもらう必要がある」はずです。県庁や市役所の財政課員はそうしていると思います。それに対し、財務省は補助金を削減する(予算を削る)つもりはないのということです。それは、自らの権限縮小につながるからでしょうか。
2日の毎日新聞は石弘光政府税制調査会長、梶原拓全国知事会長、諸井虔地方制度調査会長の鼎談「地方分権の行方を問う」「税源移譲進めて官僚政治打破を」を載せていました。(9月2日)