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公務員の評価・続き

職員に対し職務内容書を示さない、達成すべき目標を示さないので、その職員の業績評価はできません。学校でたとえるなら、習得すべき学習内容が示されないのです。よって、試験による成績はつけられません。例えば、3年生で覚えなければならない漢字とかかけ算とか、100点の内容が決まっていないのです。達成度試験はできません。すると相対評価になります。クラスの中で、よくできるかできないかです。テストでなくコンクールです。
(仕事の単位は人でなく課・係)
官庁の場合、大部屋で仕事をしています。個人ごとに達成すべき職務内容を示さず、たいがいは課や係単位で仕事が決められています。例えば、ある人がひとまず割り当てられた仕事を片付けたとします。その人は、帰って良いのでしょうか。これが、先に提起した問題です。その場合、まだ終わっていない人の仕事を手伝ってあげるのが、いい人なのです。組織として達成すべき仕事があるなら、みんなで協力して早く終わることが望ましいでしょう。大部屋主義は、融通が利くのです。これが日本型経営の、優れた点であったのです。
しかしそれは、各人の職務内容が明確でないことの裏返しです。各人の職務に融通が利くということは、各人の達成すべき仕事が伸び縮みするということです。物差しが伸び縮みすると、評価は難しくなります。このように、大部屋主義であることと職務内容書がないこととは、裏表なのです。

公務員の評価

今日は、評価について、考えていることを書いてみます。公務員制度に対する批判の一つが、「公務員の評価がなされていない」ということです。しかしこれも、実はあいまいな話です。議論を整理してみましょう。今回も、正確さを捨てて、わかりやすく大胆に切ってみます。
(昇進選抜のための評価)
実は、評価はされているのです。昇進について言えば、次官まで出世する人、局長までなる人、課長になる人、なれない人と、評価はされているのです。これは上級職だけなく、Ⅱ種Ⅲ種の人たちや地方公務員もそうです。そして、本人の不満や周囲の批判もありつつ、たいがいの場合は「やはりあの人が出世した」「あの人は無理だよな」と、落ち着くところに落ち着きます。このように、昇進の選別のための評価は、有効に機能していると思います。もっとも、これも物差しがないので「有効ではない」との批判があれば、水掛け論になりますが。しかし、評価がされていることは、間違いありません。
その際、問題なのが、官僚(国家公務員上級職と思ってください)の、同一年次一律昇進です。同期は、係長・課長補佐・課長と、ほぼ同時期に昇進します。職員採用勧誘パンフレットなどに、「入省後何年で係長」とか書いてありますね。そして、後輩年次との逆転は、まずは起こらないのです。もちろん、課長補佐でも、重要なポストかそうでないかの差はつきます。また、課長以降すなわち審議官・局長には、なれない人が出てきて、差がつきます。なれない人は、いわゆる天下り=第二の職場へ転職するのです。ポストがたくさんないと、このような一律昇進は難しいです。また、年次を超えた実力評価は、されていないということです(地方団体では、一律昇進は、まずは行われていません)。
全員を途中まで同じように処遇することで、みんなががんばるというメリットがあります。逆に早い段階で選別すると、ふてくされる人が出てきます。
(給料への反映)
これは、先日(1月25日の項)書きました。これまでは、給料・昇級・ボーナスに、そんな差はつきませんでした。その点、部下の成績で給料に差をつけることのできない管理職は、民間で言う管理職ではない、ということです。今年から、少し制度は改革されました。しかし、上に書いた「一律昇進」を続ける限りは、限界があります。
(仕事をさせるため)
官僚についていえば、「よく働いている」「残業もいとわない」という評価が一般的です。給料に差がつかなくても、昇進のために、あるいは信念でよく働くのでしょう。すなわち、評価が昇進選抜のためなら、今も機能しています。給料に差をつけるためなら、これまでは意味がありませんでした(仕事をしない職員にはどうするか。これは一律昇進で競わせる官僚とは、別の問題になります。昇進と給料でもっと差をつける=ムチをあてるのでしょうか)。
(何で評価するのか=100点は何か)
ここから、現場にいる官僚には、より大きな疑問が出てきます。これから評価を厳しくするとして、何で評価されるのだろうか。上司としては、部下を何で評価して良いのだろう、ということです。もっと直截に言いましょう。「与えられた仕事を片付けて、早く帰宅したらだめなのか」です。部下を評価する書類(様式)には、評価すべき項目が並んでいます。それはそれで意味があるのですが、職員の業績評価の一番の基準は、「与えられた仕事を達成したかどうか」でしょう。
しかし、各人には職務内容書(ジョブ・ディスクリプション)が示されていません。「あなたは、今年1年で、これこれの仕事をしなさい」(達成したら給料を満額払う。それ以上やったらボーナスをはずむ。しかし、達成しなかったら減額し、来年は降格する)とは、指示されないのです。何メートル走ったらゴールがあるのか、分からないマラソンをしているようなものです(定型業務、去年と同じようにやっておれば良い業務なら、わかりやすいですが)。
ゴールの分からない競争をするとどうなるか。上司としては、相対評価で評価するしかありません。「周りの人よりよくできる」です。それと組織への忠誠度です。和を乱す人は困ります。これらは、人物評価であっても、業績評価ではありません。人物評価と業績評価の二つは、別物なのです。もっともこれは官庁だけでなく、日本の多くの民間企業(内部管理・企画部門)に共通した問題だと思います。さて、これらの問題は、「大部屋主義」と連動しています。これについては、次回に。

お詫びの仕方・付録

一昨日から連載している「お詫びの仕方」の付録です。
お詫びの会見に備えて想定問答を作るといいましたが、これは記者会見の場で使うものではありません。数字や事実を確認するために見ることはあっても、質問に答える際に、そんな紙を見ている暇はありません。一通りの答は、頭にたたき込んでおく必要があります。その場で紙を見ているようでは、「あ、この人カンニングペーパーを見ている」と思われ、信用をなくします。分厚い資料を用意させ、それを会見場に持ち込む人がいますが、意味ないですね。
横から資料を差し入れる部下がいますが、これもよくないです。「上司ができが悪いので、部下が支えています」と見えます。必要なら記者会見している者が「ちょっと待ってください、間違いがないか確認しますから」と言って、部下を呼べばいいのです。それくらいは、記者達も待ってくれます。
説明の際に必要な数字、聞かれそうな数字なら、読み上げるのでなく資料を配付すべきです。
また、部下職員・担当者を横に座らせて「その点については担当者から答えさせます」というのも、よくないです。責任者なら、ほぼすべてを一人で答えるべきです。技術的なことで専門家に説明させることはあるでしょうが、聞いている人は記者であり一般市民です。その人に分かるように説明できないようでは、責任者として失格でしょう。
昨日の「厳しいことを言ってくれる部下はありがたい」という記述について、読者から指摘がありました。「真実を語ってくれる部下、都合の悪いことを知らせてくれる部下も、ありがたいですよ」と。その通りですね。
「岡本さんの図上演習は、いつも風呂の中ですか(笑い)」という質問もありました。うーん、そうですね。お風呂の中は邪魔が入らずに、ゆっくりと考えることができるのです。また、記者会見の前の日は、お風呂に入りたっぷりと睡眠を取って、体調万全で臨むこととしていました。お詫びの会見は、入学試験より緊張しますよ。しかも、たくさんの人に見られているのです。全人格で勝負しなければなりません。体調不良では、良い受け答えができません。

お詫びの仕方・中身が大切

昨日、「お詫びの仕方・形も大切」を書きました。しかし、本当に大切なのは、もちろんその中身です。
基本は簡単です。「嘘はつかない、よけいな言い訳はしない」です。人間だれだって、穏便に済ませたいです。でも、世の中は、そんなに甘くはありません。後でばれたときのことを考えれば、分かった時点ですべてを公表し、素直にお詫びすべきです。天網恢々疎にして漏らさず。隠すと必ずばれます。また、「いつばれるか」とびくびくして暮らすのは、健康によくありません。
私が、県庁の不祥事を知ったときに考えたのは、次のようなことです。その問題を上司として知らなかったことは、私の責任である。しかし、これはいわば受動的な責任である(この極端な例が、前任者の時代の問題が後任者の時に発覚した場合です)。管理職になったら、このようなことも覚悟しなければなりません。業界では「地雷を踏む」と言います。
それに比べ、その後始末をし、再発防止をすることは、私の責任であり、これは能動的責任です。前者は「すみません、監督不行届でした」と言えますが、後者はそんな言い訳は通じないのです(この点については「富山県庁の挑戦-私の行政改革論」(1998年、富山県職員研修所)に書きました)。
さて、お詫び記者会見に戻りましょう。あなたがカメラの前でお詫びするとき、その映像を市民が見て、納得するかどうかです。もし、あなたが、企業の幹部がお詫びしている映像を見て、「あれじゃ納得できない」と思うなら、あなたが頭を下げるときに同じことをしては、市民は納得できないのです。事故を起こし、被害を与えていながら、「ご迷惑をおかけし」とか「世間をお騒がせし・・」はないですよね。日本語として間違っていると思いませんか。被害と迷惑とは違います。
有名企業の幹部のお詫びが下手なのは、一つには経験がないこと、もう一つには取り巻きがイエスマンになって十分な助言ができないからでしょう。エリート街道を歩いてきた人は、そのような経験がないのです。民間企業も同じとのことですが、事前に記者会見用の想定問答をつくります。その時に、部下に任せては、彼らは答えやすい問を並べるのです。そして、当たり障りのない答弁を書くのです。でも、そんな想定問答は、役に立ちません(ここで、ふだん部下にどれだけ自由に発言させているか、上司のことを思っていてくれるかが、分かります。その点、私は厳しいことを言ってくれる部下を持って幸せでした。「部長。そんな説明では、記者達は納得しませんで」と)。
自分が市民だったら、またその代表であるマスコミの記者だったら、「何を聞くか」を考え、それに対し「どう答えれば、納得してもらえるか」を考えればいいのです。それは、自分で考えるしかありません。私は、よく風呂の中で模擬試験・シミュレーションをしていました。もっとも、どう答えても簡単には許してもらえそうにないので、模擬試験の最後の解答は、しばしば「開き直って、お詫びする」でした。
記者会見の質問には、逃げずに最後まで答えること、分かっていることはその通り答え、分からないことは分からないと言うこと。これしかないのです。
恥をさらすようですが、後輩達に少しは役に立つかと思って、書いてみました。笑わないでください。この項、続く

新しい仕事55

昨日、国家公務員の中途採用枠について書いたら、何人かの人から問い合わせがありました。「詳しく知りたいのですが」とか「私の知人も受けたいと言ってます」と。再チャレンジ室にも、たくさん電話があったそうです。私も昨日の記事を書くときに、インターネットで人事院のページなどを探したのですが、見つからなかったので、今日確認しました。まだ、広報はしていないとのことです。早く、HPに乗せて欲しいですね。