百人一首、編纂者は定家ではない

田渕句美子著『百人一首─編纂がひらく小宇宙』 (2024年、岩波新書)を読みました。
「小倉百人一首」として知られていて、カルタ取りでもおなじみです。皆さんも、いくつかは覚えておられるでしょう。全部言えるという人もおられるでしょうね。ところが、「百人一首」は定家の作ではない。小倉山荘のふすまに貼ったのは嘘。最近の研究では、そうなっているとのことでした。

「百人秀歌」という、百人一首に似た歌集があり、それが定家の作ったものだそうです。定家の日記「明月記」の記述も符合します。百人秀歌は1951年に発見されました。101歌、百人一首と97歌が共通です。
小倉山荘で作ったということも日記からは否定され、ふすまに百首の色紙を貼ったというのも、間違いのようです。当時そのような風習がなかったようです。百枚も色紙を貼ろうとすると、かなりの面積のふすまが必要ですよね。
百人一首が広まったのは、はるか後世の室町時代以降だそうです。和歌の模範となり、定家が神格化されます。百首という簡便な形が、広く広がった理由の一つでしょう。余り多くて専門的な難しい歌集だと、覚えられませんから。

定家が日記を残したこと、それが現在まで伝わったことが、このような考証を成り立たせています。藤原道長の日記「御堂関白記」といい、よくまあ千年や八百年前の和紙に毛筆で書かれた直筆が残っているものです。
詳しい謎解きは、本を読んでください。一種の推理小説です。

春すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山 持統天皇
田子の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人
あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも 安倍仲麻呂
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり 中納言敦忠