読売新聞に出ました「首相に直言 秘書官の役割」

8月10日の読売新聞政治面の連載「語る 霞が関」の第3回に、私の発言「首相に直言 秘書官の役割」が載りました。

・・・首相秘書官として心がけたのは、首相に「違う意見がある」ということを伝えることだった。首相は孤独な権力者だ。とてつもなく忙しく、一つの案件に長い時間をかけることはできない。判断を誤れば取り返しがつかない。官僚や議員は首相の意向に反することは言いにくく、情報が偏る。身近にいる首相秘書官が情報を整理し、耳の痛い話を伝えることが重要な役割だと思って務めた・・・

・・・かつては省庁間の縄張り争いや、複数省庁にまたがる課題が置き去りにされることがあった。これが解消されてきたのは省庁改革の一定の成果と言える。
ただ、政治主導はまだ道半ばだ。国民から選ばれた政治家が目指すべき社会像を掲げ、国民を説得しながら政策を前に進めることが政治主導の肝だ。個別の案件の政治判断は、政治主導とは違う・・・

・・・平成の時代以降、官僚に対する国民の評価が落ちたのは、社会環境の変化に適応できなかったからだ。
東日本大震災後、復興庁の前身である被災者生活支援チームのメンバーとして復興に携わった。司令塔として各省庁に仕事を割り振ったが、省庁は生産者やサービス提供者を相手にしていて、被災者と直接向き合うことがほとんどなかった。
被災地だけの問題ではない。子供の貧困や孤立、引きこもりなどの社会問題は行政機関よりも非営利団体の活躍のほうが目立つ。
効率よく公共サービスを提供する行政は一定の役割を終えた。今後は生活に困っている人たちに寄り添うことが大きな課題だ。各府省に分かれている関係部局をまとめ、生活者の暮らしを支援する「生活者省」を設置すべきではないかとの思いをますます強めている。
現役の後輩たちには、目先の課題も重要だが、10年後の国民に、「あのときなぜ取り組まなかったのか」と批判されないような仕事をしてもらいたい・・・

盛りだくさんの内容を、阿部記者がうまく整理してくれました。
なお、紙面では白黒写真ですが、インターネットではカラーでかつ大きい写真です。仕事の時は、こんな顔をしているのですね。

高木を切る

ご近所に、高い木が数本立っている庭があります。最初は庭にふさわしい大きさだったのでしょうが、すくすく成長して、とんでもない大きさになっています。「倒れたら、住宅が壊れるなあ」と心配していました。

今朝、庭師さんが入って、切り始めました。その技がすごいので、見とれてしまいました。
住宅に囲まれているのと、電話線などがあって、切り倒すわけにはいきません。まず一人が登っていきます。ニセアカシアだそうです。
「何メートルくらいですか」と聞くと、木の上から「今いるのが15メートルほど」とのこと(う~ん、仕事の邪魔をしていますね)。その上にまだまだあるので、てっぺんは20メートルほどでしょうか。わが家は3階建てなので、屋根の上で10メートルほどです。しかも、幹も枝も揺れています。ああ怖い。
徒然草の「高名の木登り」を思い出しました。

切る枝に、2本のロープをかけます。1本目は幹に近い方で、端を幹に巻き付けます。もう1本は垂らして、助手が下で端を持っています。枝が切り離されると、1本目のロープが枝を支え、そのロープを緩めると、枝が降りていきます。下の助手が2本目のロープを引っ張り、枝を受け止めます。なるほど。
ところが、途中に電話線がたくさんあり、そこに引っかかります。
助手は、降りてきた枝からロープを放し、上の庭師さんは、次の枝に取りかかります。助手は、下ろされた枝を小さく切って、トラックに積みます。このくり返しです。
途中から幹を切るには、チェーンソーが使われました。

山口晃著「へんな日本美術史」

山口晃著「へんな日本美術史」(2012年、祥伝社)を読みました。積ん読の山で化石になりつつあったのですが、キョーコさんが崩してくれて、発掘されました。
寝る前に読む本にはちょうどよいと思い、読み始めました。でも、内容はなかなか重く、勉強になるものでした。

「なるほど、この日本画はこのように見るのか、読み解くのか」とよくわかりました。
日本画は好きで、美術館にもよく行くのですが。このような解説があるのとないのとでは、見方が変わりますね。
まあ、「見てきれいと思えばよい」というのも真実ですが。
お勧めです。

シェークスピアは聞き、狂言は観る

8月3日の朝日新聞オピニオン欄、野村萬斎さんの「シェークスピアは冗舌マシンガン」から。

・・・実は、狂言とシェークスピア劇にはいくつも共通点があります。狂言は中世にさかのぼり、シェークスピアも中世から近世にまたがった劇作家と認識しています。どちらも、普段の会話を口語体でしゃべる一方、韻を踏むなど様式的な文章を口にする。そういう文体に対応する「謡う」とか「語る」という技術が、狂言師の我々にはあります。

ただ、シェークスピア劇は文字数が多い。冗舌ですね。日本ではお客様のことを「観客」といい「見る」お客様ですが、英語ではオーディエンスといって「聴衆」、つまり「聴く」ことにウェートがあるためでしょう。だからシェークスピア劇を演じる時は、口、舌の回転数をあげる必要があります。
狂言の場合は、息継ぎをしながらも大きく抑揚をとって短い言葉を発していくのに対し、シェークスピア劇は、特に訳された日本語だと、マシンガンのように矢継ぎ早に話さないとダレてしまいます。口跡の回転率をあげ、腹の底からというより、少し胸高にしゃべる印象があります。

発声も違います。たとえば「ハムレット」の名セリフ。狂言式に話すと
(腹から出し朗々と)生きるべきか、死ぬべきか、それが問題でござる
とやります。一方で、現代の英国のシェークスピア劇では
(小声で、ささやくように)トゥビー…オアナットトゥビー…ザットイズザクエスチョン
という感じでしょうか。

シェークスピアの時代、自我が確立し、近代的な苦悩というものが劇中に登場しはじめた。自分のあり方を内向的に追求する表現は、ささやくような声のほうが現代の観客とは共有しやすいのかもしれません。悩みやストレスの多い時代になったので・・・

アサガオが咲きました

今年も、孫娘と種をまいたアサガオ。種をまくのが遅く、お向かいのお師匠様に「生育が遅く、蔓も細いですね」と、診断を受けたのですが。
その後元気よく葉が茂り、蔓も太くなりました。支柱と水平の枠(円形の針金)に這わせているのですが、ジャングル状態になっています。

ところが、花が咲きません。生育が遅いのか、肥料を間違えたのか。
ようやく昨日7日に、一輪咲きました。でも、次のつぼみが見当たりません。気長に待ちましょう。
記録を見たら、去年は7月28日、一昨年は8月5日でした。