行政化する日本政治、その2

前田健太郎・東大法学部准教授の「行政化する日本政治」の続きです。
先生は、1990年代に佐々木毅先生が、野口さんと同様に、政治思想の研究者が行政学の研究動向を批判したことを取り上げます。政党優位論への反論です。

・・・佐々木の批判の要点は、こうした政党優位論が、政治家の役割に関する不適切な理解に立っているということであった。民主政治における政治家の役割とは、ただ単に個別の政策分野で官僚に対して影響力を行使することではない。むしろ、政治家の役割とは、政党を組織することを通じて、様々な政策分野を横断する政策パッケージを提示し、その中身を他の政党との論争を通じて鍛え上げることである。族議員のように、選挙区単位、業界単位の特殊利益を代弁し、その利益を当該分野の所管官庁の予算獲得を支援することを通じて実現しようとする政治家は、本来果たすべき役割を果たしていない。政党優位論が見出したのは、「政治家の官僚化」なのである・・・

・・・1990年代以降に展開した政治主導のための諸改革の行き過ぎが忖度の問題を生み出したのではない。むしろ問題は、政治主導が、政治家同士の論争を通じた政策決定ではなく、首相の権限強化を通じたリーダーシップの行使と理解されたことにある。その帰結として、与野党間はもちろん、与党や官僚制内部においても政策を巡る論争が低調になったのである・・・

鋭い指摘です。原文をお読みください。
私も、官僚の評価の低下の原因の一つは、政策を議論しないことにあると主張しています。政策を決定するのは、内閣です。そして、決められたことを実行するのは、官僚の役割です。しかし、政治家に対し、必要な政策、選択肢としての政策を提示することも、官僚の重要な役割です。
毎日新聞「論点 国家公務員の不祥事」」「毎日新聞「論点 国家公務員の不祥事」その2

アサガオと青虫

今は、10月中旬。わが家のアサガオは、まだ花をたくさんつけています。さすがに大きな花は少なくなり、小さな花が少しになりました。今日の報告は、アサガオの花でなく、青虫です。

去年も出た青虫。今年も出ました。
1週間ほど前に気がつきました。葉っぱがなくなっていて、よく見ると大きな青虫が数匹、元気よく葉を食べています。そのうちに、花まで食べました。いくつかの茎は、葉も花もない、茎と種だけになっています。キョーコさんによると、7匹もいるそうです。
去年は突然いなくなったのですが、今年はどうなるのでしょうか。
2018年アサガオと青虫」「2018年アサガオと青虫2

台風被害、復旧の難しさ

風による大きな被害をもたらした台風15号に続き、台風19号が、各地に大雨による大きな被害をもたらしました。気象庁が、狩野川台風以来と予告した通りになってしまいました。被害に遭われた方に、お見舞い申し上げます。
被災者を救助し、避難所に入ってもらい、生活の支援をします。次に、復旧の段階に入ります。被災者にとっても、自治体にとっても、大変なことです。

ところで、私の経験では、一般の方、自治体の職員、報道関係者が、意外と気づかない「課題」があります。それは、大きく報道されることと、被災者にとって重要な課題が、ズレていることがあるのです。
道路や堤防などの公共施設は、国土交通省や自治体の土木部が経験と能力を持っています。農業被害の把握も、農水省と農政部が取り組んでくれます。それも大変なのですが。

課題は、つぎのようなものです。
・各家庭への支援。どのような支援策があるかの相談や、何に悩んでいるかの聞き取り。これは、最近までは家庭のことは「自己責任」とされ、自治体の業務ではありませんでした。しかし、公共施設の復旧も重要ですが、住民の生活再建の方がより重要なのです。
・がれきの片付け。分別しておかないと、後の作業が大変です。これについては、環境省が経験を積みました。
・ボランティアの受け入れと、配置。これも、近年経験を積み重ねてきましたが、多くの自治体と社会福祉協議会にとっては、初めてのことです。
・そして、これらの対応に当たる市町村役場への職員の応援です。

なぜ、これらの項目を、ここで挙げるのか。それは、
・これまで、各家庭の責任と町内での助け合いで対応していたことが、行政の責任になったからです。
・道路や農地は、県庁にも市町村役場にも担当部局があります。しかし、ここに上げた項目は、担当部局がないのです。危機管理課や防災課は、ここまで手が回りません。庁内で対策会議を開いても、これらの項目は担当課がないので、上がってきません。
・県庁にも、このような視点で市町村役場を応援することが、これまでなかったのです。

公共施設の被害状況は、比較的早くまとめられます。担当部局があるからです。しかし、個人の家がどの程度被災したかは、すぐには報告されません。これは、ふだんそれを担当している部局がありません。役所の目で見るのと、被災者の目で見るのとでは、すべきことが違って見えます。
また、激甚災害に指定するかどうかが報道されますが、これは公共施設の被害額が算定の基礎になります。極端なことを言えば、家屋がたくさん倒れていても、道路や堤防に被害がないと激甚災害にはならないのです。

行政化する日本政治

東大出版会PR誌「UP」9月号に、前田健太郎・東大法学部准教授が、野口雅弘著『忖度と官僚制の政治学』の書評「行政化する日本政治」を書いておられます。

近年の日本の官僚制における「忖度」について、一般的には、首相の権力基盤が強化され「政治主導」あるいは「官邸主導」が実現したから、官僚たちはその意向を忖度して行動するようになったと言われていると指摘した後で。
・・・しかし、今回紹介する野口雅弘著『忖度と官僚制の政治学』(青土社、2018年)は、こうした説明とは全く異なる議論を展開している。本書によれば、現在の官僚制における「忖度」の問題は、政治主導に起因する現象ではない。むしろ、この現象は政治が「行政化」していることに由来する。つまり、忖度の広がりとは、政治家が官僚を従わせていることではなく、政治家が官僚のようになってしまっていることの現れだというのである・・・

・・・官僚の「忖度」が指摘されるようになった背景として、本書は1990年代以降の日本政治における「アカウンタビリティ」の広がりに注目する。この言葉は「説明責任」と訳され、政治家や官僚といった政治エリートが自らの行動を社会に対して説明する責任を意味する表現として用いられてきた・・・
・・・この過程(情報公開制度や新公共管理論の発展)において、本来は二種類に区別されていたアカウンタビリティの概念が混同されるようになったと本書は指摘する。第一は、官僚のアカウンタビリティである。これは、行政の執行手続きが公正・中立に行われ、そこに恣意性が含まれないことを意味する。第二は、政治家のアカウンタビリティである。これは、自らの立場の持つ党派性を明確にしたうえで、その立場に基づいて対抗勢力との論争を行うことを意味する。ウェーバーが『仕事としての政治』において展開した官僚と政治家の役割の区別に従えば、官僚は「怒りも興奮もなく」政治家の決定を実行し、政治家は対立する価値を巡る「闘争」を通じて意思決定を行うのである・・・

・・・この二つのアカウンタビリティのうち、1990年代以降の日本で主流となったのは、官僚のアカウンタビリティであった。すなわち、本来は野党との論争を主たる役割とするはずの政権与党の政治家たちが、政策決定を行う際、自らの党派性を前面に出すのではなく、むしろ自ら政策が他に選択肢のない、客観的で中立的なものだという、あたかも官僚のような論理を用いるようになった・・・
・・・このように論争の可能性を排除しようとする説明の仕方は、政治家の作法ではない。むしろ、それは政治が「行政化」していくことを意味する(243頁)。そして、政治から論争が排除されることが、「忖度」の広がりの背景となる。というのも、政策的な論戦が行われにくい環境の下では、政策を立案し、論争する能力に長けた官僚よりも、官邸の中枢の意向を先回りして読み、関係者の利害を調整する能力を持つ官僚の方が出世しやすいからである・・・
この項続く

連載「公共を創る」第21回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第21回「哲学が変わったー成長から成熟へ 日本型行政にはまらない課題」が、発行されました。

前回、非正規社員の問題を取り上げました。問題と言っていますが、彼ら彼女らに責任があるのではありません。正規社員を望んでも、全体の3割以上の人が非正規にならざるを得ない。それは、会社の側、社会の側に問題があるのです。
そして、そのような非正規社員を増やした原因は、これまで高く評価されていた日本型雇用なのです。正規社員を解雇せず定年まで雇う。それはよいことなのですが、そのしわ寄せを、新規求職者にかぶせて、彼らを従業員数の調整に使っているのです。

再チャレンジ政策で対象とした「引きこもり」も、これまでの行政では対応できない問題です。金銭給付や身体支援では、解決できないのです。
ここに、これまでの行政、そして日本社会を変えていかなければならない契機があります。

訂正
P17の中段、後ろから4行目の「社員」は、「職員」の間違いです。見落としてしまいました。反省。