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社会

東京オリンピックの持つ意味、もたせる意味

2020年の東京オリンピックについて、考えました。スポーツ競技としてではなく、この世界的イベントが持つ社会的な意味についてです。
近年のオリンピック開催の意義は、大きく2つに分けられると思います。
1つは、経済成長に成功し、先進国の仲間入りをする「成人式」です。1964年の東京(日本)、1988年のソウル(韓国)、2008年の北京(中国)です。
オリンピックは都市が開催する建前ですが、今上げた大会は国家が威信をかけて行いました。国民と諸外国に向けてです。国家が、オリンピックをそのような場として利用するのです。
1936年のベルリン、1980年のモスクワ、2016年のリオデジャネイロも、これに分類できるでしょう。
もう一つは、それ以外の大会です。第1のグループとの対比では、その国にとって2回目の開催であることや、首都でない場合が、典型的になります。もちろん、実際には、そんなきれいに分類されませんが。
なぜ、このような分類をするかと言えば、2回目の東京オリンピックをどのように位置づけるかを考える「補助線」としてです。
第1回目の東京オリンピックは、今述べたように、位置づけが簡単明瞭でした。では、第2回目はどう位置づけるか。
これが、東京以外の都市だったら、位置づけはより簡単でした。「日本には、東京以外にもオリンピックを開催できる都市があります。世界の皆さん、見てください」とです。第1回目から半世紀後の東京で、何を見せるか。何を見てもらうか。
「単なるスポーツの祭典だ」と割り切ってしまえば、それまでですが。せっかくの機会ですから、それなりの意味をもたせたいですよね。立派な競技施設や華やかな開会式を、自慢するのではないと思います。施設やイベントでなく、世界に見せ、後世に残すものです。

大学改革、中根千枝先生の発言

11月7日の日経新聞教育面、中根千枝・東大名誉教授のインタビューから。
「経済・社会の停滞を打破するために、大学改革を求める声が強まっています」との問に対して。
・・みんな、教育を改革すれば良くなるという夢を持っている。しかし大学制度を変えても、社会のあり方も、人々の意識も容易に変わるものではないから、変えて良くなることもあれば、前の方が良かったということにもなる。
改革案には学長の権限強化についてもあるようだが、大学の学長はふさわしい人がなるとは限らない。学長は努力されているが、管理のトップに向いていないこともある。日本では教授会の権限が強いことも簡単には変わらないとみられ、改革案に期待してもどれほど成功するか・・
記事には、男性中心だった大学で、女性の地位が向上した数字も載っています。大学生に占める女性の割合は、1955年には12%でしたが、今は42%です。大学教員(本務教員)に占める女性教員の比率も、5%から21%に上がっています。ただ、まだ21%です。

アジア各国の世論調査

日経新聞10月8日の経済教室、猪口孝先生の「アジア全域で初の世論調査」は、アジア29か国・地域を対象に、生活の質に焦点を当てた世論調査結果を紹介しておられました。アジアの全ての国を対象とした調査は、これまでなかったとのことです。ただし、今回も、北朝鮮と東ティモールは外れています。
「子どもに対してどのような価値観や規範意識を植え付けたいか」では、日本は思いやりですが、他国は勤勉、独立、正直です。日本では、「他人」が強く埋め込まれています。他国は、「自己」です。
個人生活、社会関係、国家の強さという3つの視点から、重要性の順序を問うものもあります。
これまで、「日本人論」、「日本社会の特殊性」に関して、多くの本が出されました。でも、その大半は、印象に基づくものです。このような調査結果による「日本と他国の違い」は、説得力があります。もちろん、調査の際に本心を回答するか見栄を張るかによって、誤差は出ます。

誤表示か偽装か

有名大手ホテルチェーンでの、レストランの食材の「誤表示」がニュースになっています。ホテル側は、「誤表示であって、偽装ではない」と説明しているそうです。ある人がこれについて、次のように評価していました。
「食材を誤って表示したと説明するのなら、安いブラックタイガーを高い車海老と表示をしただけでなく、逆に車エビをブラックタイガーと表示したこともあるのだろうか・・」。確かに、そのような例を示せば、利用者も納得するでしょうね。

日本の大学、頭脳のガラパゴス化

10月9日の朝日新聞オピニオン欄、野依良治さんのインタビュー「頭脳、大循環時代」から。
・・日本ではほとんど注目されていませんが、学界トップの壮絶な引き抜き合戦が、国を超えて繰り広げられています。たとえば、米国の名門ロックフェラー大学が2003年に学長として引っ張った英国のノーベル賞学者を、英国は7年後に王立協会会長として取り戻しました。米ロ間では、米在住のロシア人科学者をめぐる攻防がありました・・
・・現代は知識に基盤を置くグローバルな社会です。人や資源、情報は簡単に国境を超え、一国の発展を担う科学技術も国家の枠内にとどめておくことが難しい。優秀な人材をあらゆる階層で引き抜きあい、異才を融合して新たな知につなげようという頭脳の大循環を引き起こしているゆえんです。とりわけ、新しい時代の研究機関の経営ができる力量ある人材は限られています。こうした動きに新興国も積極的に加わりつつありますが、日本はその認識が乏しい。世界の潮流から取り残され、独自の道を歩む「ガラパゴス化」を指摘されても仕方がない状況です・・
・・グローバル化と国際化は連続していますが、区別して考えなければなりません。国際化は自分たちの国の特質を堅持したうえで、諸外国と関係をつくること。グローバル化は世界の一体化です・・
・・日本の国立大学の学長の8割に留学経験がない、というのも際だっています・・

・・かつては個人戦でしたが、いまや団体戦です。異なる分野との連携や融合がものをいう。若者や女性、外国人の参加が絶対に必要です。違う感性を持っているからです。パスツールは「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」といいました。研究者の発想のもとには文化があります。一番大事なのは、さまざまな文化を背景に持つ人たちが直接顔を合わせて連携することです。違うものとの出会いが新たな価値を生む。本人がいかに優れているかより、いかに触発されるか。同質の統合ではなく、機能を重視した横断型ネットワークが欠かせません。
いかなる国でも、外からの多様な人材が必要ですが、残念ながら、いまの日本の国立大学には、外国人を呼び込むだけの魅力がありません。これまでの慣習と成功体験の呪縛によって、世界の潮流に乗れていません。科学の共通語は英語ですが、大学院ですら日本人の、日本語による、日本人のための教育と研究です。これでは若い外国人は来ません。留学生の割合は米国で3割、欧州では5割ですが、日本では東京大学でも14%です・・
これもまた、日本のこれまでの成功の裏返しです。日本は、英語を使わずに高等教育ができる、数少ない国です。政財界のエリートも、日本語で用が足せました。