カテゴリーアーカイブ:社会と政治

佐伯啓思先生、民主主義を支える人びとの信頼

2022年9月9日   岡本全勝

8月27日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「社会秩序の崩壊と凶弾」から。私は連載「公共を創る」で、社会を支える信頼関係の重要性を主張しています。

「民主主義とは言論による政治」といわれるが、ここにはひとつの前提がある。それは、言論による合意形成という手続きを人々が信頼する、言い換えれば暴力を排除するという前提だ。これはまた次のことを意味する。それは、論議される問題の重要性や理解において、人々の間にある程度の共通了解があり、仮に意見の対立があっても、その根底には人々の間の相互信頼がなりたっている、ということだ。
民主的社会は、基本的にこの種の前提に基づいて政治秩序を維持してきた。だから、「民主主義」「言論の自由」「法の支配」「公私の区別」「権利の尊重」などは相互に連結した普遍的価値とされたのであり、それを総称して「リベラルな価値」といってよい。
従来、「リベラルな秩序」の実現こそが社会の進歩をもたらすとみなされ、リベラルな価値は先進国ではおおよそ受け入れられてきた。ところが今日、日本だけではなく世界的にも、あきらかに「リベラルな秩序」が崩壊しつつある。どうしたことであろうか。

少し考えればわかるが、リベラルな価値は、理念としては結構であっても、それだけで社会秩序を作れるわけではない。自由の背後には自制がなければならず、民主主義の背後には政治的権威の尊重が必要であり、法の背後には慣習や道徳意識がなければならない。権利の背後には義務感や責任感が不可欠である。
これらは目にみえるものではなく、暗黙のうちに保持されてきた価値だが、社会秩序を維持する上で実は決定的な意味をもってきた。リベラルな秩序の実現は、リベラルな価値の普遍性によって担保されるのではなく、現実社会の具体的様相のなかで、人々が、「目にみえない価値」を頼りにして営む日常の生によって実現されてゆく。
実際に「目にみえない価値」を醸成し維持するものは、人々の信頼関係、家族や地域のつながり、学校や医療、多様な組織、世代間の交流、身近なものへの配慮、死者への思い、ある種の権威に対する敬意、正義や公正の感覚、共有される道徳意識などであろう。

かつて政治学者の高坂正堯氏は、国家は「力の体系」「利益の体系」そして「価値の体系」からなるといった。安倍氏はとりわけ政治力や経済力に関して日本の国力を強化しようとしたし、着実に一定の成果をあげた。
ところで私は、「価値」には二つの側面があると思う。法や政治的理念などの「公式的価値」と、文化や習慣といった「非公式的価値」である。「リベラルな価値」は前者であり、ここでいう「目にみえない価値」は後者である。「保守の精神」は、一方では国家の安全保障にかかわるが、他方では日本の「目にみえない価値」の維持をはかるものでなければならない。

グローバルな大競争の時代にあっては、政治は、リベラルな普遍的価値という「公式的価値」を高く掲げ、技術革新を推進し、社会を流動化し変化させなければならないだろう。だがそのことが、日本社会が保持してきた「非公式的価値」を蝕むことにもなるのである。安倍政治の成果が、逆説的に「保守の精神」の衰弱という帰結をもたらしたとしても不思議ではない。社会の土台や、人々の精神の拠り所が崩壊しつつあるのだ。
それは、われわれの社会生活の土台であり、精神生活の核となる。それらは、あまりに急激な変化にさらされてはならないのであり、その意味で、「目にみえない価値」を重視するのは「保守の精神」なのである。それがなければ、リベラルな価値など単なる絵にかいた餅に過ぎなくなるであろう。そして安倍氏殺害の容疑者にあっては、この「目にみえない価値」を醸成する安定した生活や精神の拠り所が失われていたようにみえる。

個人の不満を吸い上げていない民主政治

2022年8月25日   岡本全勝

8月12日の朝日新聞オピニオン欄、山腰修三・慶應大学教授の「安倍元首相銃撃 民主主義という参照点から掘り下げて」から。

・・・また、「事件は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に恨みを抱いた容疑者が引き起こしたものであり、安倍氏の政治信条への異議申し立てではないのだから、民主主義とは関係がない」との反論もあるだろう。だが、これも7月18日付の朝日のインタビューでの政治学者・宇野重規氏の言葉を借りるなら、あまりに「表層的」である。
宇野氏によると、個人の不満を吸い上げる政治的な回路が機能不全を起こし、本来社会全体で解決すべき問題が、あたかも個人の問題であるかのように捉えられるようになった。政治と切り離され、漂流するこうした不満が今回のように暴力の形で噴出してしまったのであれば、それは「民主主義の敗北」にほかならない。今回の事件を読み解くうえで重要な指摘である。

近年、世界的な民主主義の退潮が繰り返し指摘されてきた。日本だけがこの潮流と無縁であることなどありえない。トランプ現象のような分かりやすい形で大規模に展開しなかっただけで、人々の不満や要求を政治につなげる回路は着実に衰退してきた。
日本では安倍政権下の官邸主導によってさまざまな政策が実現する一方で、民意を代表しているはずの国会での議論が軽視された。思い返せば、今世紀初頭の小泉純一郎政権下の経済財政諮問会議を通じた「改革」をメディアも世論も大いにもてはやした。だが、それもまた政党や国会を迂回し、一部の専門家やビジネスの論理を政治に反映させる手法であった。
一般の人々の不満や要求を政治につなげる回路たるべき組織や制度が徐々に衰退し、民意は漂流を始めている。人々は選挙も伝統的なマス・メディアも、自分たちを代表していないと考えるようになった。

かつての大衆社会論に基づけば、中間集団を喪失した大衆は、政治的な無関心と熱狂との間を揺れ動く存在となる。こうした状況は現代社会において、今回のような暴力だけでなく、ポピュリズムや陰謀論が活性化する条件を形成することになる・・・

旧統一教会、社会との関係

2022年8月22日   岡本全勝

8月10日の朝日新聞オピニオン欄「旧統一教会、社会との関係」、紀藤正樹・弁護士の発言から。

旧統一教会は、1980年代から90年代に大きな社会問題になりました。当時と比べて、教団の活動自体にあまり変化はない。大きく変わったのは社会の視線です。
90年代には、70~80年代に勃興した新興宗教が統一教会以外にも多くあり、社会がカルトを見る目も厳しかった。特に95年のオウム真理教事件の後は、カルト問題の報道が非常に多くなされました。
ところが、2000年代半ば以降、新興宗教についての報道が明らかに減ります。オウム真理教事件が風化し、社会の視線も厳しさを失った。カルトへの厳しい視線や社会的規制が続いていれば、政治家も安易に統一教会とは関われなかったはずです。

法的な規制の問題もあります。1987年、統一教会と関係があり、高額なつぼなどを販売する会社の霊感商法に被害者から提訴が相次ぎ、警察も摘発に動きますが、会社が霊感商法の自粛を宣言してうやむやになってしまった。
2000年代後半には、警察が摘発に乗り出し、09年に統一教会系の企業「新世」の社長らが逮捕され、有罪判決を受けました。しかし、教団本部への家宅捜索までは行かず、統一教会が「コンプライアンス宣言」を出すというあいまいな決着になりました。

メディアの変質もあると思います。7月8日に安倍晋三元首相が殺害された後、容疑者と旧統一教会の関わりについて、新聞やテレビは教団側が記者会見した11日まで報道しませんでした。いくら選挙期間中だといっても、全社横並びで旧統一教会の名前を伏せていたのは異様です。
法的な規制は信教の自由に抵触するといわれますが、カルトすなわち反社会的な宗教団体と、一般の宗教団体を一緒に考えるべきではありません。欧米では、カルトがカルトであるゆえんは、違法行為をすることだと見なされています。脱税、詐欺、脅迫、性加害や児童虐待もある。既存の法律を厳格に適用し、違法行為を摘発していけば、おのずとカルトはなくなっていくはずです。

95年にオウム真理教事件があり、今度は元首相の殺害事件が起きた。30年間にカルトに関わる大事件が二つも起きる異常な事態を招いたのは、国会や政府がオウム真理教事件の総括をきちんとしなかったことが一因だと思います。今からでも遅くないので、カルト問題全般について、原発事故調査委員会のようなものを国会内に設置し、対策を考えるべきです。

実用社会学への期待

2022年8月17日   岡本全勝

連載「公共を創る」で、社会を見る際に公私二元論ではなく、官共業三元論で見ることを提唱しています。官は政治行政で二元論での公で、業は市場経済で二元論での私です。共は、狭い意味の社会であり非営利の世界です。この三つが、私たちの暮らしを支えています。

官については、政治や行政がどうあるべきか、政治学や行政学があります。業についても、経済学や公共経済学で、市場がどうあるべきか、政府はどのように介入すべきかについて大きな蓄積があります。
ところが、共(狭義の社会)については、私たちの暮らしをよくするためにどうあるべきか、政府はどのように関与すべきかを総合的に議論をしたものはないのです。少子高齢化、格差、孤独、子どもの貧困などについて、社会学は社会の問題を発見し、提起してくれます。そのような個別問題は扱うのですが、それらをまとめて議論した教科書や概説書はないのです。

社会学が、哲学のような深遠な議論をするものから、格差や孤独など身近にある具体問題を扱うものまで、様々なものを含んでいます。その全体像を系統的・分類的に示すことは難しいでしょう。私が期待するのは、社会学のうち「実用の学」と思われるものを集めて、分類し、それらを全体的に議論することです。
政治学、経済学(の一部)が「実用の学」であると同様に、社会学にもそれを期待したいのです。「公共社会学」という学問分野の考え方もあるようです。それが発展することを期待します。

現在日本の保守、終わった進歩幻想

2022年8月12日   岡本全勝

7月28日の日経新聞「シン・保守の時代・下」、吉田徹・同志社大学教授の「終わり迎えた進歩幻想」から。

先進国では1970年代から階級意識が薄れていき、政治の対立軸が富の分配から個人の生き方に関する意識の相違へと変化した。90年代にはそれまでの左派がリベラルと称するようになり、自己決定権の重視が掲げられるようになった。
一方、今の日本で「保守」と呼ばれる人たちが守ろうとしているのは「失われた平和な20世紀」だと私は考える。
20世紀後半は人類史の中でも特殊な時代だった。第2次世界大戦後、国境が引き直され、先進国では豊かな中間層が多数派になった。しかし、石油危機を経てリーマン・ショックがとどめとなり、豊かな時代は幕を下ろす。少子高齢化に転じ、国境を越えた人の移動で同質的な社会も失われた。先進国の多くで「子供世代は自分たちほど豊かにならないだろう」という意見が多数派になった。進歩幻想が終わりを迎えたのだ。だからトランプ政治は喪失された「偉大なアメリカ」に訴えかけたのだった。
没落と喪失の恐怖は現代日本の保守的な態度にもつながっているように思う。五輪や万博、令和版所得倍増計画。ノスタルジーを持ち出して未来を投射しようとしている。「保守すべきものがない保守」といえよう。
幻想にとらわれているのは、日本国憲法が前提とした世界が崩壊しているにもかかわらず、護憲に固執する古いリベラルの側も同じだ。保守、リベラルともに内実が失われているからこそ、有権者は政治と生活が結びついていないように感じるのだろう。現状が変わらなければ、将来には悲観的にならざるを得ない。

半面、若年層の間で強まっているのは現状の権威を認め、従うことを良しとする権威主義化の傾向だ。松谷が「右傾化なき保守化」と呼ぶこの現象は、若者の反権威主義化が進む他の先進諸国の例とは対照的だ。
背景にあるのはメンバーシップ型の労働市場の存在だろう。日本では正社員と非正規社員の間に大きな溝があり、失敗すれば再チャレンジは認められない。安倍政権が支持されたのも就職率が良かったからだ。競争社会を生き抜くために強い立場の人間に従うことは、彼らにとって合理的な生存戦略ともいえる。

日本の若年層はデモやストライキといった政治参加の経験割合が低い。要因の一つは自己肯定感の低さにある。ゆえに、日本は先進国の中でも20代の自殺率が高い。自己肯定感が低いと、大多数の意見や共同体のあり方を否定しきれない。失敗や試行錯誤を許してこなかったツケともいえる。

日本社会は勝ち負けを判断する尺度の種類が少ない。人生にはいろいろな尺度があってしかるべきで、それが多様性の本来の意味だったはずだ。社会のモデルを再考し、自分が受けた恩恵を後世に再投資していく循環を作っていく必要がある。