カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

行政-社会と政治

世界史の中の明治維新、そして150年。

東京財団の連載「明治150年を展望する」第5回は、「世界史と日本史のサイクル」でした。
1868年が世界史的にどのような時代であったかが、簡潔に述べられています。
当時、先進的な国民国家を実現していたのは、イギリスとフランスだけです。
日本が明治維新で近代国家への道を歩み始めたのが、1868年。ところが、西欧でも、同じような動きが進んでいたのです。ドイツが国家統一を成し遂げたのが、1871年。イタリア王国の成立が1861年、国家統一が1870年。アメリカが南北戦争で国家分裂を回避したのが、1865年でした。
日本史では、「アジアで唯一」という「日本特殊論」に自尊心をくすぐられて(それはそれで良いことなのですが)、世界で同様なことが起きていたことを忘れがちです。

連載でも指摘されているように、これら新興国が、先進大国イギリスとフランスに挑戦します。ドイツ、日本、イタリアは、戦争によってもです。
アメリカは、2度の戦争ではイギリス・フランス側につきますが、経済的に凌駕します。
(西)ドイツ、日本、イタリアは、第2次世界大戦で敗戦国になりますが、今度は経済で躍進し、アメリカを追います。
しかし、アジア各国がベトナム戦争後、特に中国が文化大革命後に、経済発展路線に転換し、追い上げてきます。そして、20世紀末から21世紀初頭にかけて(つい最近、そして今です)、これら先進国を脅かすようになりました。

この連載は、以前に紹介したことがあります。「東京財団、明治150年の分析」。その他の回も、お読みください。

イノベーション政策、政府の役割

6月15日の朝日新聞オピニオン欄、神里達博さんの「イノベーション政策 政府は「主導」より「対処」を」から。詳しくは、原文をお読みください。

・・・ 最近、「イノベーション」という言葉をよく耳にする。現政権においてもイノベーションは非常に重視されており、「第三の矢」とされる「成長戦略」においては、中心的な役割が与えられてきた。
イノベーションさえ起これば経済は成長プロセスに乗り、日本社会は再び活気を取り戻すはず。そんな漠然とした期待が広がっているようにも思う。しかし、それは確かなことなのだろうか。
今月は、この概念の本来の意味を確認した上で、近年の日本の「イノベーション政策」について、少し考えてみたい・・・

・・・ 一方、その過程やメカニズムについての学術的研究もなされてきた。その結果、イノベーションを管理するための知識も、ある程度は蓄積されてきた。だが、社会に強いインパクトを与えるようなイノベーションの多くは不連続的な現象であって、事前の計画や設計ができる類いのものではないことも分かってきた。
また、真に影響力の大きいイノベーションは、以下のような物語を伴うことも多い。少数のパイオニア、時には狂信的ともいえるような情熱を持った人たちが、世間の冷たい視線にもめげず努力を続ける。そしてついに成果を世に示す日が来る。人々は驚愕し、世界が変わる――この種のストーリーは当然、計画や設計にはなじまない・・・

・・・本来、科学技術政策と産業政策は別ものだが、最近は産業政策、特にイノベーション政策の手段のように科学技術政策が位置づけられることが目立っている。
実際、政府の科学技術政策の司令塔「総合科学技術会議(CSTP)」は、14年の内閣府設置法改正により、「総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)」に名称変更された。
加えて、閣議決定で設置された「日本経済再生本部」のもとに置かれた「産業競争力会議」の、さらにその中のワーキング・グループが、CSTIに対して「宿題」を出し、CSTIが対応するという、不思議な現象も起きているという。
これを「官邸主導」と呼べば聞こえはいいが、国会の議決に基づく、法的根拠のある行政組織が、閣議決定を根拠とする組織の「手足」のごとく走り回っているとすれば、問題ではないか。

これらは一部の例に過ぎないが、日本では他にも、すでにさまざまな政策が、イノベーションの名の下に動員されていく流れにある。それが本当に日本社会を豊かにするならば、一つのやり方かもしれない。だが、シュンペーターが指摘しているように、本物のイノベーションが起これば、それはしばしば既存のシステムの破壊を伴うということも、忘れるべきではない。
かつての通商産業省は、石炭から石油へのエネルギー革命に対処すべく、石炭対策特別会計を設け、石炭産業を安定化させ、離職者の生活を守ることにも気を配った。
行政の本来の仕事は、イノベーションを加速することよりも、その結果起こるさまざまな社会経済的なゆがみに対処することではないだろうか。結局のところ、政府はイノベーションという難題に、どのように、どこまで関わるべきなのか、いま一度、落ち着いて見つめ直すべき時だろう・・・

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロって、知っていますか。
ブルクハルト著『イタリア・ルネサンスの文化』 (1974年、中公文庫)を読まれた方なら、カバー表紙に出て来た、あの特徴ある横顔の人です。
15世紀、イタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主。傭兵隊長、屈指の文化人でルネサンス文化を栄えさせたことで有名です(ウイキペディア)。

ドイツの歴史学者による、『イタリアの鼻 ルネサンスを拓いた傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ』(邦訳2017年、中央公論新社)を読みました。この本のカバーにも、同じ肖像画が使われています。槍試合で右目を失い、鼻の上が欠けているのも、そのせいです。彼が描かせた絵が常に左の横顔なのは、そのような理由がありました。

面白いです。「闘っては一度も負けず、とびきりの文化人で、領民にも優しい」というのが、彼の評判です。傭兵隊長として高額な「外貨を獲得し」、そのおかげで、領民から厳しく取り立てることがなかったようですが。
この本によれば、実際は、彼は兄弟を暗殺して領主になり、権謀術数を尽くして傭兵隊長として名を上げます。そして、その汚れた手を隠すためにも、有能な君主として見せるためにも、文化人として振る舞い、伝記作家にも「良いことばかり」を書かせます。戦争に負けても、「引き分けだった」とか「彼だからこのような結果で済んだ」と言うようにです。

中世イタリアは、大きく5つに分裂していました。教皇領、ナポリ、ベネチア、ミラノ、フィレンツェの5つです。それぞれが生き残るために、強いものが出てくるとみんなで叩きます。こうして、バランスオブパワーが保たれます。傭兵隊長としても、イタリアが統一されては困るのです。失業することになるのですから。
マキャヴェッリが、君主論を描く背景です。合従連衡、小競り合いは繰り返されますが、決定的な大戦争は回避されます。傭兵隊長に払うお金がなくなると、戦争は終わります。隊長にとって、部下の傭兵たちは重要な財産ですから、むやみに消耗させることはしません。闘うけれども、死者は出してはいけない。「大人」の世界です。
一般民からすると、その道のプロ同士がゲームをやっている、それを見物しているようなものでしょう。戦闘に巻き込まれると、えらい目に遭いますが。近代になって、国民が兵隊に取られるようになり、さらに現代になって、総力戦になって非戦闘員も戦闘に巻き込まれるようになりました。当時の戦争と現代の戦争は別物です。

このような社会(一定の枠の中の競争)が続くと、いろんな結果が生まれます。戦闘による競争とともに文化による競争、権謀術数の知恵とワザ。君主、軍人、文化人、建築家・・・。領民は困るでしょうが。
社会が人をつくり、人が社会をつくります。

ギャンブル依存症対策

5月19日の朝日新聞別刷り「フロントランナー」、ギャンブル依存症問題を考える会代表理事の田中紀子さんの発言から。

「日本はギャンブル大国と言われます」について
・・・たとえば、全国どこへ行ってもパチンコ店があります。かつては30兆円産業といわれていました。売り上げは落ちてきているとはいえ、いまも20兆円前後あるとみられています。
出玉は直接、現金には換えられません。「娯楽施設」の位置づけですが、「特殊景品」と呼ばれるものが別の場所で現金化されています。法律に抵触しないようにするためのレトリックに過ぎず、事実上のギャンブルです・・・

「厚労省は昨年9月、ギャンブル依存症の疑いがある人は全国に約70万人いると推計を発表しました」について
・・・過去1年間で発症した疑いがある人の数です。それ以前を含めるともっと多くなり、罹患者は320万人いると推計されています。
怖いのは、家族や友人など周りの人を巻き込んでしまうことです。家族を実態調査したことがあります。「借金を肩代わりしたことがある」と答えた人は8割以上に達しました。100万円以上から300万円未満が24・1%、300万円以上から500万円未満が22・9%でした。「1千万円以上」と答えた人は17・5%もいたのです・・・

「依存症に社会はどう向き合うべきでしょうか」
・・・精神論や道徳論で片付けられないことを理解すべきです。最初は好きでやっていたとしても、ある段階からは「やめたい」と思っていながらやめることができないのです。回復までには時間がかかります。医療機関や施設につなぐ社会の環境づくりが大切です・・・

詳しくは原文をお読みください。

移民政策、経済学と政治学

4月27日の日経新聞、経済教室、中島隆信 ・慶応義塾大学教授の「移民政策の現状と課題(下)」「 安易な外国人依存避けよ」から。詳しくは原文をお読みください。

・・・移民に関する経済学の実証研究はこれまで数多くなされてきた。だが筆者と明海大学の萩原里紗氏による「人口減少下における望ましい移民政策」(経済産業研究所)やベンジャミン・パウエル米テキサス工科大教授による「移民の経済学」などのサーベイをみても、研究成果が政策に役立つかどうかは定かでない。
明確なのは、生産性の低い場所から高い場所への労働移動が社会全体の所得を増やすということだけだ。国境を越えて移動する人たちはおおむねこの原則に従って行動すると思われるため、世界全体の生活水準向上という観点に立てば移民は是とされる。

ところが移民の受け入れ国に与える影響となると話は違ってくる。この点に関する国民の関心事は、(1)成長に寄与するか(2)国内の職を奪わないか(3)財政を悪化させないか(4)治安が悪くならないか――の4点にほぼ絞られる。このうち経済学の対象外となる(4)を除けば、いずれも前提条件の置き方次第でプラス・マイナス両面の結果が出ており、しかもその経済全体に与える影響は比較的軽微だ。要するに移民を入れても入れなくても経済的には大差はない。

だとすると、移民政策は貿易政策と似た政治色を帯びることになる。つまり移民に仕事を奪われそうな人は受け入れに反対し、移民と補完的な仕事をする人は賛成するという図式だ。そして全体最適の議論は脇に追いやられ、結論が先送りされるかポピュリズム(大衆迎合)的風潮が生起するかのいずれかになる・・・