「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

変容する政治と宗教の関係

10月21日の読売新聞「公明連立離脱 変容する政治と宗教の関係 水島治郎・千葉大教授に聞く」から。

・・・水島教授は、労働組合や業界組織などの団体が個人をまとめて政党を支える仕組みが、20世紀後半の政治の構図だったと指摘する。各団体は、都会に出てきた地方出身者など、旧来のつながりから切り離された人々を包摂し、仲間を提供する場となり、政治参加の道を開いた。「戦後の新宗教も同じような機能を果たしていた。創価学会が支持する公明党だけでなく、自民党も様々な宗教団体を支持基盤としていた」
この構図は、西欧諸国でも同様だった。信徒が属する教会系団体に支えられ、キリスト教民主主義政党が政治を担った。「宗教を一つのベースとし、反共産主義の旗印の下に結集していた。教会やキリスト教団体は、信仰を共有するだけではなく、友人を作る場であり、市民が政治にかかわる経路ともなっていた」。水島教授は、宗教系の団体が、戦後の日欧政治における隠れた主役の一つだったと説く。

自公連立が20世紀の最終盤に実現したのは、両党の支持基盤に先細りが見えたためだが、そうした政治の到達点と見ることもできる。だが21世紀に入ると、中間的な団体は急速に力を弱めた。宗教団体の場合、親からの信仰の継承を拒む人や、私生活を優先する人が増えた。インターネットの発達で仲間作りも容易になった。「個人と団体との関わり方が根本的に変わり、両者の力関係が逆転した」
個人が政党支持に至る過程も、政治家の動画を見て判断するなど流動的になった。団体は縮小し、残った構成員は高齢化し、政治活動の熱も下がった。「個人―団体―政党」という安定した構図は一部のものとなった。「構成員をフル稼働させても選挙で勝てるとは限らなくなった。負ければ団体の存在意義に関わり、内部分裂にもつながる」とし、宗教団体にとって選挙がリスクになっていると指摘する。

一方で水島教授は「宗教団体の力は弱まり、団体に依存する政治のあり方は変わってきたが、宗教そのものの影響力は弱まっていない」と強調する。例えば欧州では、反イスラムで保守勢力を結集させる際、キリスト教が重要な旗印になっているという。「外部者を排除し、人々をまとめるために、自国の宗教的アイデンティティーが使われている」
実際、米大統領のトランプ氏や露大統領のプーチン氏、イスラエル首相のベンヤミン・ネタニヤフ氏ら、世界を揺るがせている政治指導者は一様に、宗教的アイデンティティーを前面に出している。「自分が信じているかは別として、宗教に訴えることが、政治家の戦略として効果的だとの感覚は持っているはず。宗教とナショナリズムは、人が命をささげるに値する究極の価値として意識される点で共通するものがある」・・・

・・・各国で共通するのは、宗教的アイデンティティーを前面に出し、人々をまとめる役回りを、急進的な右派勢力が担っている点だ。従来の宗教団体に支えられた中道保守勢力は弱体化している。今後について水島教授は、その傾向がさらに強まる可能性があるとする。
「社会は変わり目にあるが、宗教の役割は形を変えつつも衰えておらず、陰に陽に政治と結びついている。北欧など先進的とされる民主主義国でさえ、宗教と結びつく形で君主制も維持されている。日本でも、お祭りなど宗教的な行事への関わりは薄れておらず、皇室への関心は高い。現実の展開は、教科書的な近代化・世俗化とかなりずれているのではないか」・・・

グローバリズムとリベラルへの不信

9月27日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「航海士なき世界で」から。

・・・今日、グローバリズムはほぼ信頼を失っている。そのことは欧米をみれば一目瞭然である。それでは、グローバリズムとは何であったのだろうか。
人、モノ、資本、情報、技術の国境を越えた移動を一気に高めるというグローバリズム(地球一体化)は、米国を中心とする冷戦後の世界標準となった。その柱は何かといえば、次の二つである。
一つは、米国流の「リベラルな価値」の世界化である。列挙すれば、個人の自由、民主的な政府、法の支配による世界秩序、合理主義や科学的思考、人種・ジェンダーの多様性、移民受け入れ、市場競争による効率性など。この普遍的な価値観で世界を画一化し、世界秩序を生み出す思想である。
もう一つは、先端的な科学技術のイノベーションと自由競争による経済成長追求であり、それによって世界中の富を拡張できるという信念である。

そしてこの両者ともに行き詰まってしまった。こういう意識がトランプ大統領を誕生させたのだ。
まず「リベラルな価値」からいえば、とりわけ民主党系のリベラルな政治家、官僚、ジャーナリズム、有名大学の学者、各種の専門家などの「上層の知的エリート」が進めてきたグローバル政策が、結局、米国社会の格差を生み、社会不安を作り出し、米国の経済力の低下を招いた、という意識が強い。つまり、「リベラル派のエリート」に対する大衆の不満と不信が膨れ上がった。
その結果、米国では、反エリート主義、反エスタブリッシュメントの心情が拡散していった。それが、既存の政治スタイルや既存のメディア、ハーバードのような伝統的大学といった権威に対する反感を募らせていった。その受け皿がトランプ氏であった。
一方、イノベーションと経済成長主義も今や十分な成果を上げられない。グローバル競争は国家間対立をもたらし、イノベーションは、膨大な研究開発費や資金を必要とし、しかもそれが一部の投資家へと富を集中させる。本当に国民の生活につながるという見通しはまったくない。冷戦以降の先進国の経済成長率は確実に低下しているのである。

これが、米国を中心にした今日のグローバリズムの素描である。そこに米中対立やら欧州の右派の台頭など不安的要因はいくらでも付け加えることができる。
その中で、米国はどこへ向かっているのか。グローバリズムを超える何かをトランプ政権は準備しているのだろうか。そうは思えない。それは信頼できる航海士を失ったさまよえる巨船のように世界を混乱させている・・・

AI社会で個人の尊重をどう守るか

9月20日の朝日新聞オピニオン欄、山本龍彦さんと青井未帆さんの対談「AI社会「個人の尊重」は」から。近代市民社会、憲法は、自立した個人を前提にしていましたが、「弱い人」もいることがわかり、子ども、労働者、病人、障害者、消費者へと「保護の対象」を広げてきました。情報もその考察の対象とするべきなのでしょう。

――「すべて国民は、個人として尊重される」と定めた憲法13条では、様々な情報をもとに自分の頭で理性的に考えて選択する「強い個人」が想定されていました。しかし、SNSの隆盛や、刺激的なコンテンツで閲覧数を稼いで広告収益などを上げようとするアテンション・エコノミーが進んで言論空間に分断が生じる中、これまでの「個人」像が挑戦を受けているのではないでしょうか。

山本龍彦さん 夏の参院選の結果は両義的でした。これまでは組合や経済団体など様々な老舗組織の影響力が強く、個人が存在感を発揮できない面がありました。SNSから直接情報を得て判断することが当たり前になり、個人が従来型の中間団体支配から解放されたとみることもできます。
しかし、その個人の判断が本当に理性的で自律的だったかはわかりません。SNS事業者は、より多くのアテンション(関心)を獲得するため、AIを駆使して、その利用者が最も強く反応しそうな刺激的な情報を選別してオススメしています。既存メディアの情報から自由に、自分の頭で判断したと思った人もいるかもしれませんが、情報の選別や偏りがあるという点ではSNSも同じです。メディアの「色」よりもSNSの「色」の方が気づきにくいので、個人の意思決定に対する操作性は、より高まったとも考えられます。

青井未帆さん 参院選の結果についてはさらに分析が必要ですが、個人が脆弱な存在であるということは明らかになったと思います。

山本 AIの属性予測に基づいてカスタマイズされた「刺激」が次々とオススメされますから、個人はかなり脆弱な状態に置かれますよね。
個人の無力化は、個人データ保護の議論でも見られます。動画視聴時も商品購入時も、私たちの個人データは常に、大量にやりとりされ、いまや誰とどこで共有されているのか個人はわからない。これまでは本人同意が基本でしたが、もはやデータの取り扱いを個人がまともに意思決定するのは能力的にも無理なので、本人同意は諦めて、事業者のガバナンスを適正化していく方向にかじを切るべきだとの議論も有力化しています。憲法学でも、個人データに対する本人の主体性を認める「自己情報コントロール権」が通説でしたが、最近では批判も強く、その地位が揺らいでいます。
自己情報コントロール権への攻撃は、AI化を推進する立場からも起きています。AI化を強力に推進するには、データフローを最大化し、あらゆるものをシステムにつなぐことが求められます。そこでは、個人よりも社会全体の生産性を向上する「全体最適」が強調されることも多い。この立場からすると、データの世界で権利を主張する個人は、「滑らかな繋がり」を阻害するノイズでしかないのです。実はAI規制の文脈でも、特に米国では、個人に権利を主張させるのではなく、事業者側に透明性や説明責任など適正なガバナンスの構築を求める傾向があります。

青井 近代的な個人観は検討し直さなければならないでしょう。ネットワークの世界では、個人はネットワークにお世話をしてもらい、依存しているように見えます。人がこの世界に生まれ落ちた時、必ず誰かにお世話をしてもらわなくてはいけないという状況と近接している気がします。脆弱な存在です。
依存という点では、健康を損ない、最終的に他人や自分を殺したりする結果も生んでいます。実際に米国では、プラットフォーマーがアルゴリズムで若者をSNSに依存させ、心身の健康を損ねたとして裁判も起きています。チャットボットとの会話が日常的になり、AIを感情を持つ存在のように扱うことによるリスクも指摘されています。
一方で、繋がらない世界もあるわけです。私たちは「侵襲される身体」を持つ存在です。人は必ずだれかと関係を持ち、関係の中に人が存在する。身体性が優位な空間は、まだ残されているのではないでしょうか。

山本 デジタルの大海に放り出された個人には他者のケアが必要ですが、その「他者」は身体性をもった人間なのか、AIなのか。尊厳を重視するEU(欧州連合)では、重要な事柄をAIのみで自動的に決定されない権利が個人に保障されています。これは「人間」の関与を要求できる権利、身体的な関係性をノイズとして確保する権利とも言える。
その背景には、AIがつくり出す脆弱性や精神的疎外のケアを、生成AI自身に任せることは果たして可能なのかという問題がある。

この国のかたち、外国人との共生

憲法とは、その国のかたち・基本を定めるものですが、憲法に書かれていない「この国のかたち」もたくさんあります。
私は、明治憲法と昭和憲法には、第1条の前に第0条があったと考えています。その第1項は「国民は勤勉に働き、豊かになることを目指す」で、第2項は「その際には、欧米を手本にする」です。昭和後期に豊かさを達成したことで、第2項は不要となり、第1項は代わる条文を模索中です。
このほかにも、日本語を国語とすること。男女同権と言いつつ多くの分野で男尊女卑であること。結婚すると妻は夫の姓を名乗ることなどの慣習もありました。これらは、急速に変化しつつあります。

近年問われている「この国のかたち」の一つが、定住外国人との共生です。
移民政策(労働力として外国人を受け入れる)を取らないと政府は主張していますが、実際はなし崩し的に受け入れています。問題は、彼らをどのように社会に受け入れるかです。
一方で包摂を目指す人たちがいて、他方で排斥する人がいます。このような国民の間にある対立を調整する経験を、近年の日本政治・国会はしたことがありません。1952年の独立の際の、全面講和と単独講和との対立以来かもしれません。しかしそれも「外圧」でした。

意外な問題から、この国のかたちが問われ、政治の役割が問われることになりました。日本国、日本社会をどのようにつくっていくか。結果とともにその過程も、この国のかたちです。

低温社会と低温政治

低温経済と低温社会」の続きになります。
本棚の本を片付けていると、1990年代と2000年代の政治や経済に関する本がたくさん出てきます。同時代を分析する評論です。佐々木毅、北岡伸一、佐伯啓思、西部邁、御厨貴、田中直毅、田勢康弘といった大学教授や評論家、新聞記者がたくさん書いています。現状を批判しつつ、その構図・構造を分析して、改革論を述べています。学術書と評論との中間的な本です。
バブル経済が崩壊し、経済も政治も行き詰まっていることが明らかになり、それを克服することが課題だったのです。

それで思ったのですが、最近はそのような本が少ないですね。出版されていても、私が買っていないのでしょう。本屋を覗くと、政治や経済評論の本やトランプ大統領に関するものなどが並んでいますが。
政治や経済が動かないと、分析や評論の対象になりにくいのでしょう。
前回、「適確な処方箋がないことも、対応を遅らせているのでしょう。研究者や報道機関の奮起を期待します」と書いたのですが、分析はされていても、現場がそのように動かない問題だからかもしれません。必要なのは制度改革ではなく、運用だからでしょう。

その後、中央省庁改革、地方分権改革、いくつもの規制改革などが実施されましたが、政治行政改革はそこで止まったようです。経済界では、その後も攻めの経営が活発になるのではなく、コストカット(人件費削減、経費削減)が続き、経済は長期の停滞を続けました。
政治では、民主党への政権交代と自民党の復帰がありましたが、政治課題に本格的に取り組んでいるとは思えず、与野党を含めて政治構造が変わったとは見えません。経済界も縮小が続き、拡大発展の話題はあまり聞きません。

1990年代は、まだ改革に向けての「熱意」「活力」があったのでしょう。2020年代には、その熱意が感じられないのです。
あきらめのように見えます。評論はされるのですが、構造的改革・本格的改革には取り組まないのです。衝撃的な危機ならば対応を急ぐのでしょうが、緩慢な衰退は危機感をもたらさないのでしょう。「ぬるま湯」と例えられますが、ぬるま湯は温度が下がっていきます(通常、ぬるま湯の例えは、温度が上がって茹で上がる場合に使うようですが、今の日本は冷めていく状況です)。