カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

日本とドイツ、戦後の近隣諸国との付き合いの違い

10月3日(すみません古くて)の朝日新聞オピニオン欄、駐日ドイツ大使のフォルカー・シュタンツェルさんの「これからのドイツは」から、日本に関する部分を引用します。聞き手は、有田哲文・編集委員です。
「戦後史を振り返ると、ドイツはずっと『経済的には大国だが政治的には小国』と言われてきました」という問に対して。
・・それは、私たちの「自制」という考え方から来るものです。
私たちは侵略者でした。戦後になると、周りの国すべてが私たちの犠牲者でした。もし、もうドイツのことを恐れてほしくない、協力してほしいと思うならば、自分の考えを他国に押し付けるのを控える以外にありません。もちろん、私たちの要求を一切言わなかったわけではありません。しかし、その時には欧州の多国間の枠組みで進めました・・
「日本にも同じような自制の態度が見えますか」という問に対しては。
・・もちろんそうです。日本もひどい戦争を引きおこし、そしてその戦争に負けた後、ドイツと似たような結論を導き出したのだと私は考えています。経済発展に専念し、国家を再建するけれども、決して自分の意思や利益を他国に押し付けることはしない。自制とは、賢い政策です・・
「でも、日本はドイツと違い、いまだに中国や韓国との歴史問題をかかえています」
・・不幸にも日本とドイツでは環境に大きな違いがあります。欧州では私たちだけでなく、フランスなど私たちの犠牲者であった国々も和解を望んでくれました。そして彼らと一緒に、EUをつくるという事業を成し遂げることができたのです。しかし、日本の場合は、アジア連合のような事業はありませんでした。中国は共産主義国家だし、韓国はかつて軍事独裁でした。これらの国は民主的なパートナーにはなりえませんでした。同じ立場に立って多角的な協力を政策として進めることは、私たちよりもずっと難しかったと思います・・

俺たちのつくった首相

10月17日の日経新聞「ニュースな人ひと」は、野田毅・自民党税調会長でした。
・・忘れられない場面がある。1980年代、税調のドンといわれた山中貞則氏が鈴木善幸首相の意向に沿った発言を繰り返した。野田氏が「あなたは首相秘書官か」と反発すると、山中氏は目を見開いて答えた。「お前の言うことは正しい。だがな、これは俺たちのつくった首相の言うことなんだ」。場が静まりかえった。豪快な言動の裏で、山中氏も首相に気を配っていたのだ・・

歴史の教訓

アーネスト・メイ著『歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか』(原著1973年、邦訳1977年。私が読んだのは、2004年、岩波現代文庫)を、紹介します。外交の古典とも言うべき本ですから、お読みになった方も多いでしょう。文庫本になって、読みやすくなりました。
この本の主旨は、外交政策形成者は、現在の問題を処理するときに、よく過去の事例からの類推を行う。しかし、その際に、しばしば間違って当てはめることです。第2次大戦、冷戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争を取り上げて、具体的に分析しています。それぞれ、アメリカ政府が、その参加(開始)、継続、終結に、決断を迫られました。
「なるほど、そのような別の選択肢もあったのか」と、考えさせられます。「歴史にifは無い」といわれます。たしかに、現時点からさかのぼると、ifはありません。時計の針を戻すことはできません。しかし、現時点で歴史を作っている責任者としては、別の選択肢(たくさんのif)を考えて、1つを選ぶ権限と責任があります。そこに、政治の重さ、政治家の責任(助言者の責任)があります。
詳しくは本を読んでいただくとして、本筋から離れますが、私が考えたことを書いておきます。
朝鮮戦争の場合です。第2次大戦後、南朝鮮を占領したアメリカですが、ソ連との関係で継続を主張する国務省に対して、陸軍は早期撤退を考えていました。シベリアや中国での作戦には、朝鮮半島を迂回し、直接に空爆をかければ、敵が半島を支配していても価値がないという説明です(p85)。
途中の経過を省略しますが、アメリカも同意して、国連で全占領軍の朝鮮からの撤退が採択されます。1949年6月には、アメリカ占領軍は朝鮮から撤退します。1950年5月時点で、ソ連が朝鮮を侵略する可能性があるとしても、アメリカは軍事力を用いないというのが政策でした。
しかし、6月24日に北朝鮮軍が南に侵攻したとき、アメリカは国連の決議を手に入れ(ソ連がたまたま欠席していました)、北朝鮮との戦闘に入ります(p98)。
有名なジョージ・ケナンは後に、国連が「形式的には内戦であったものを(国連の管轄事項として)承認したこと」に驚いています(ちなみに、彼は当時、国務省で3番目に重要な人物だったそうですが、電話のない農場で週末を過ごしていました)。
・・大体アメリカ政府が、国連安全保障理事会の取るべき行動をそこで提案する必要はかならずしもなかった。アメリカはもはや占領統治国ではなったのだから、朝鮮を守る特別の責任など持ってはいなかった・・(p106)
アメリカが事前の方針とは異なり、戦争に入ったことには、国際的に威信を示すことのほか、トルーマン大統領が選挙対策(支持率アップ)のために決断したという説もあります。ここは、本を読んでください。
事前の方針通りに進んだら、かなりの確率で朝鮮半島は北朝鮮の支配下に入ったでしょう。若いときに、先輩が言った言葉を、覚えています。「釜山まで赤旗が立ったら、日本の社会や政治は変わっただろう。戦争の放棄や非武装中立などを、お気楽に言っていられないだろう」。1990年代前半、初めて韓国を訪れたとき、ソウルの金浦空港ロビーに自動小銃を構えた兵士が立っていました。たぶん徴兵された若者でしょう。北と対峙している韓国を実感し、隣国なのに大きく違うことを学びました。
この本は、9月4日に「責任者は何と戦うか、その5。議会と世論」で引用しています。その後、書こうとして放ってありました。もっとも私の本業は公務員なので、この「日記兼副業」の怠慢は許しましょう。飲まなけりゃ、もっと書けるのに。
肝冷斎も、ぶつぶつ言う割には、毎日せっせと書き連ねています。しかも、もう一つページを書き続けているのです。

戦前の日本に戦争を選ばせた条件、現在の日本を戦争に進ませない条件

9月22日の読売新聞「地球を読む」、北岡伸一先生の「安全保障議論。戦前と現代、同一視は不毛」から。
先生は、「昭和の戦前期、日本を戦争への道に進ませた諸条件を考えれば、今の日本に当てはまらないことは自明だからである」として、次の5つを上げておられます。
第1は「地理的膨張が国家の安全と繁栄を保証する」という観念。第2は「相手は弱い」という認識。第3は「国際社会は無力で、制裁する力はない」という判断。第4は「政治の軍に対する統制の弱さ」。第5は「言論の自由の欠如」です。それぞれの条件が、戦前の日本に戦争への道を進ませ、その条件が当てはまらない現在の日本は戦争を選ばないという主張です。説得力があります。
他方で先生は、この5条件が現在の中国に当てはまることも述べておられます。これも納得。原文をお読みください。

リーマン・ショック5年、第2の大恐慌を回避した政治

9月29日の日経新聞「シリーズ検証。危機は去ったか。リーマン・ショック5年」は、当時の麻生太郎首相へのインタビューでした。リーマン・ブラザーズの破綻が9月15日、麻生内閣発足が9月24日、10月23日に北京で開かれたアジア欧州会議の際に日中首脳会談が開かれました。
・・日中首脳会談の席でリーマン破綻の影響、特に外貨準備の大半を占めるドルへの影響が議論になった。私からは「中国と日本は外貨準備のドル保有残高で世界1、2位だ。ドルを安定させることが重要である。それが日中両国の経済にとっても利益である」と慎重な対応が必要だと話した。
脳裏をよぎったのは、基軸通貨が揺らぎ、世界が通貨安と関税引き上げ競争に走った1930年代の再来だった。幸い、どの国も米国債の投げ売りに走ることはしなかった。結果的に基軸通貨の揺らぎを避けられたのは幸いだった。
胡主席とは中国経済についても議論した。「米景気の悪化で対米輸出が激減し、輸出を米国に依存する中国の景気も悪化するだろう。従って、中国は内需拡大に精力を投下し、インフラ投資に重点を置けばいいのでは」と私が話すと、胡主席はノートを取り出しメモを取っていた。
国際政治の首脳会談は事前の打ち合わせに沿って進む。ところがこの日、胡主席とは想定外に率直な意見交換ができた。11月に中国は4兆元(60兆円)の経済対策を決定した・・
サルコジ・フランス大統領、メルケル・ドイツ首相、ブッシュ・アメリカ大統領とのやりとりも紹介されています。また、11月のG20サミットの席で、日本が国際通貨基金(IMF)に1,000億ドルの融資を表明して世界をリードしたことも。続きは、原文をお読みください。
私は、リーマン・ショックへの対応は、政治と経済の関係、しかも国際経済と国際政治の関係や、政治の役割を考えさせる良い事例だと思います。もっとも、1930年代は失敗したことで大恐慌は歴史の教科書に大きく取り上げられ、今回はそれを回避できたことで歴史の教科書には大きく取り上げられません。